第5章 1994年 -   1 七月七日(3) 

文字数 2,395文字

               1 七月七日(3)


 順子は速攻食ってかかって声を荒げる。

 そんな順子を眺めつつ、

 稔は成す術もなく放心状態となっていた。

 前もって知らされていた婦長でさえも、

 二人を前にして心の動揺を抑え切れないようで、

 あらぬ方へ目を向けジッと動かないままだ。

 さらにそんな出来事から、ほんの少しだけ前のこと……、

 直美の病室を出た幸一は、彼女の母親とのことを報告しようと、

 村上婦長のいるナースステーションに寄ったのだ。

 ところが婦長の隣に腰を下ろすと、すぐに内線電話が掛かってくる。

 ――例の件なんだけど......これから応接室で、あの子のご両親に説明したいんだ。

 ――それで今、あなた、空いてる? 

 漏れ聞こえたそんな声に、婦長は明らかに困った顔を見せていた。

 それから電話を切るなり開口一番、

「忙しいから帰れ」

 と口にする。

 これでかえって幸一は、

 説明されるのが直美の両親じゃないかとピンときた。

 何かあったのか? 

 そんな思いに、そのまま病院を出る気にどうしてもなれない。

 だからただただ考えたくて、一階の待ち合いのベンチに腰掛けたのだ。

 すると五分くらいが経った頃だ。

 すぐ目の前を、見たことのある顔が通り過ぎる。

 ――あれ? おやじさんだ。

 偶然にも、直美の父親が彼のすぐ前を歩いていった。

 話したことなどなかったが、

 日曜日の病室で何度か会って、その都度会釈くらいは返していた。

 そんな父親が血相変えて、エレベーターに息を切らせて乗り込んだ。

 その瞬間、幸一は一気にエレベーター前まで走り、

 四階で止まったのを確認する。

 ――どうする? 違う人が、降りたのかも知れない……?

 そうとも思うが、とにかく一か八かだった。

 結果、違っていたならそれはそれで仕方ない。

 そう決めて、階段を使って四階まで駆け上がる。

 そうして意外にも、目指していた応接室はいとも簡単に見つかった。

 四階の廊下に足をかけた途端だ。

 いきなり大きな声が聞こえてくる。

 声のした方に歩み寄ると、

 第二応接室――そんなプレートの貼られた扉の向こう側から、

 再び女性の声が響き渡った。

「ちょっと待ってください! できないってどういうことですか!? それじ
 ゃああの娘は、これからいったいどうなるんですか!?」

「ですから、これまで通り、様子を見ながら……」

「ちょっと待ってください! そんなことを、そんなことばかりもう二年です
 よ! ようやく手術をするって決めたのに、それだって、それだってあの娘
 が、あの娘がどんなに苦しんだと……あの娘は、まだ二十歳にもならな
 い……あの娘は……あの娘は……」

 そんな声の後、女性の言葉はいっときぜんぜん聞こえなくなった。

 一方答えていた男の声も、それからは一切聞こえない。

 そんな代わりにすぐにまた、

 今にも泣き出しそうな声が何度も何度も繰り返された。

「このままじゃ、あの娘は死んでしまうんでしょ? 先生! 先生はそうおっ
 しゃってましたよね? だから、移植手術を受けるんでしょ! そうですよ
 ね! 先生、答えてください! そうでしたよね!? そうじゃなかったん
 ですか? ねえ! 先生! 黙ってないで、なんとか言ってくださいよ!」

 聞き覚えのない声だったが、幸一にもそれが誰かはすぐにわかった。

 ――このままじゃ死んじゃうって……それは直美のこと、なのか? 

「また、手術を受けることになったの。でも、これを受ければ、今度は本当に
 治るって、だから怖いけど、わたし、受けることにしたんだ」
 
 直美が三ヶ月ほど前に、幸一へそんなことを言ってきたのだ。

 ――それが、移植手術だったのか? 

 しかしそんな手術も、なぜかできなくなったらしい。

 ――手術できなかったら、直美が死んじゃうって言うのかよ!? 

 そう思った途端、彼の全身は総毛立ち、

 居ても立ってもいられなくなる。

「じゃあわたしたちは……直美に、なんて伝えればいいんですか?」

 さらにそんな問いだけが微かに聞こえた。

 ただし声への応えがあったとしても、もはや幸一には聞こえない。

 彼はすでに扉から離れ、母親の声をかなり遠くから聞いていた。

 足が宙に浮いているようで、身体が揺れている感じがする。

 そんな状態のまま歩き出し、

 夢遊病者のように非常階段を降りていった。

 ところが一つ目の踊り場に降り立ったところで、

 立っていることもできなくなる。

 いきなりその場に座り込み、幸一はわんわん泣き出してしまうのだ。

 そしてそんな姿を、幸い見ているものなどいなかった。

 ところがその少し前、

 彼のうしろ姿を偶然見かけて、首を傾げたものはひとりいた。

 四階にある休憩室に、こっそりジュースを買いに来ただけ。

 そんなことさえ注意される直美は、

 誰にも告げずに一人エレベーターに乗り込んでいた。

 そうしてエレベーターから出た途端、遠くに幸一の姿が目に入る。

 ――あれ? 幸一くん……? 

 応接室から離れ、とぼとぼと歩く彼の背中が見えたのだ。

 ――帰ったんじゃなかったの? 

 そう思い、まさに声を掛けようとした時だ。

 その姿が階段へ消えた瞬間、

 情念の叫びが彼女の耳にも届いてしまう。

 それは振り絞るような順子の声で、

 直美は何事かと慌てて扉の前に立っていた。

 そして次の声が響き渡ると同時に、

 彼女は思わずドアノブをつかみ、

 扉の向こう側へ身を乗り出した。
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