第6章 高尾山 -  2(4)

文字数 2,470文字

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 新宿駅に着くまで、

 まさか、こんな状態になるなんて露ほどにも思っていなかった。

 京王線の階段を上りかけ、幸一は自分に起きている現実を初めて知った。

 脚が、まるで動かない……。

 こんなことなら、車で一緒に帰ってくればよかったのだ。

 しかし彼は別れ際、無事下山できた喜びを、

 一人で味わいたいなどと思ってしまう。

 そしてさらには実のところ、

 これまでにない照れを直美に対して感じていた。

 だから速攻、電車で帰ると告げて、彼は直美の車を見送ったのだ。

 ただなんにせよ、これまでの予行演習で、

 ここまでになったことなど一度もなかった。

 重さだけで言うなら、直美が誰より格段に軽い。

 けれどきっと、そんなことだけではないのだろう。

 少なくとも今日一日、かなり緊張していたろうし、

 それ以外にも本番ならではのことがあったはずだ。

 とにかく脚が、まるで自分の脚じゃない。

 立っていてもいつなん時、膝がカクっといってしまいそうで怖かった。

 幸一は生まれて初めて座りたいと思って列に並び、

 そのお陰で始発から腰を下ろすことができる。

 そして電車が走り出し、ふと大きいあくびを一回だけしたと思った。

 すると次の瞬間、降りるべき駅名が聞こえた気がする。

 ――嘘、だろ?

 夢ウツツって状態のまま、必死になって聴覚だけを覚醒させた。

 ところが再び聞こえてきたのも、やっぱりさっきとおんなじ駅名……。

 ――俺、寝た? 

 なんの確信もないままに、幸一は慌てて立ち上がる。

 そして両脚が伸び切った瞬間、右脚の膝から上がいきなり力を失った。

「カクン!」なんて音が聞こえてきそうな唐突さで、

 膝が曲がって身体が一気に前のめりになった。

 すると次の瞬間だ。

 目の前に立っていた誰かが幸一を両手で抱え込む。

「おい! どうしたんだ!?」

 声の主は幸一を抱え、驚き一杯の顔を向ける。

 しかし幸一は下を向いたまま、「どうも」とだけ告げて、

 よろよろと出口の方へ歩き出してしまうのだ。

 すると、またまた次の瞬間、

「幸一、ちょっと待てって!」

 それはまさしく聞き覚えのある声だ。だから慌てて振り返る。

 するとそこに父、博が立っていて、

 そのまま押し出されるように電車から降り立った。

 それから博が走り寄って、そんな彼に抱えられながら、

 やっとのことで改札脇のベンチに腰を降ろした。

 そうして立ったまま、何か言いたそうにしている博に向かって、

「ただの、筋肉痛だから……」

 幸一はそう呟いて、下を向いたままぶっきらぼうに続けて言った。

「だから、先に帰っててくれよ」

 ところが博は帰らなかった。それどころか、

「まあ、そう言うな……」

 なんてことを呟いたと思ったら、

 さっさと幸一の隣に座り込んでしまうのだ。

「おまえ最近、ずいぶん真面目にやってるんだって?」

 突然そんなことを口にして、それでも正面を見つめたまま。

 そうしてしばらく経ってから、幸一を覗き込むようにして再び言った。

「どういう、心境の変化なんだ?」

「別に、俺は、何も変わってないよ」

「いくらなんでも、その答えは受け入れられんな。だいたい見た目がぜんぜん
 違う。さっきだって、まさかおまえが、わたしの目の前に座ってるだなん
 て、おまえが立ち上がるまで、父さんはぜんぜん判らなかったぞ」
 
 再びまっすぐ前を向いて、博は少し照れたような顔をした。
 
 だらしない――博から見ればだが――服装にリーゼントだった息子が、

 洗いざらしの頭にトレッキングシューズを履き、

 自分の目の前で寝こけていた。

「それにだ、それじゃあまるで、普通の中学生みたいじゃないか?」

 そんな博の言葉に、幸一がそこで初めて顔を上げた。

「俺はもともと、普通の中学生だよ」

「そうか、普通の中学生か……ありがたい、そうあってくれるのが、一番だ」

 そう言ってから、博は唐突に立ち上がる。

 そして、「歩けるか」と声を掛け、

 膝の上にあった幸一の登山リュックを手に取った。

 それから二人は、普段なら十数分の道のりを三十分かけて帰宅する。

「病院は、無理に継がなくたって構わんよ、だからな、おまえさんが本当にや
 りたいことを見つけて、それに向かってがんばりなさい」
 
 ずっと黙り込んでいた博が、途中唯一そんなことを言ってくる。

「悔いの残らぬよう真剣に生きてくれ、そうしてくれれば、母さんと父さん
 は、それでいいから……」
 
 さらに独り言のようにそう続け、彼は再び押し黙ってしまった。

 しかしそんな博のひと言が、意外なほどに幸一の心に突き刺さるのだ。

 高尾山での別れ際、直美は涙を流して喜んでいた。

 背負い切った彼を前にして、潤んだ目にその喜びを一杯にした。

 本当のところ、たかが高尾山に登っただけだ。

 なのにたったそれだけのことで、

 彼女は人生一つ分手に入れたような喜びを見せる。

 今この時、そんな直美の姿を思い出し、幸一は痛烈に思い知った。

 ――これまで、いかに安易に生きてきたか……。  

 直美と出会っていなければ、こんなことを思うことなど絶対なかった。

 さらにきっと、普通の中学二年生なら、

 考えないのが普通であるに違いない。

 しかし彼は兄を失って、命の尊さを一度は知った。

 それからは、様々な思いを胸に過ごしていたはずなのに、

 いつの間にか拗ねたようになって、

 意味ない日々を過ごすようになっていた。

 ――俺は今、彼女に何を、してやれるんだろう? 

 何かきっと、自分にだってできることがあるはずだ。

 そんなことを考えているうちに、彼はあっという間に眠りに落ちた。
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