第9章 もう一つの視点 -  1

文字数 2,112文字

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 六年生になったばかりの頃だ。

 誰にも気付かれないよう注意しながら、

 直美は教室でいつも幸喜の姿を探していた。

 好きだという言葉など一切ないが、それでも一冊目の日記帳には、

 そんなことを感じさせる文章が随所に綴られていた。

 そしてすべては、幸喜から声を掛けられた日から始まったのだ。

「矢野さんって、いつも本読んでるね。それってさ、いったいどんなの読んで
 るの?」

 一学期が始まってすぐ、彼はそう言って本の頁を覗き込んだ。

 ――やった! 向井くんに本を貸すって約束しちゃった! 

 そんな文面が増え始めた頃、美津子からの仕打ちも始まったようだ。

「彼女夏休み前、例のドッジボール騒ぎで入院してさ、親しかった病院の婦長
 さんに、いろいろと相談してたみたいでさ」

 ――直美ちゃんの病気のことを、そのお友達にちゃんと知ってもらうの  
   よ。 あなたがこれまで、どれだけ大変な思いをしてきたか、一度じっ
   くり話してみたら?

 病気自体を隠している。
 
 そんな事実を知らない婦長は、そう言って直美を励ました。

 ――そうすればきっと、その子もわかってくれるわよ。 

「少なくとも、色メガネなんかで見なくなる。そんなふうに言われたみたい
 で、自分の病気に関する本を、美津子に渡そうとしたらしいんだな……」

 わたし、夏休みに入院しなければいけなくなって……。

 直美は勇気を振り絞り、そんな言葉を投げ掛けた。

 しかし美津子は差し出された本を叩き付け、さらにはその去り際に、

「……安心して、死んでちょうだい!」

 と、口にする。

「このくらいのことしか書いてない。でもきっと、他にもさ、いろいろと言わ
 れたんだと思うよ。美津子がいないから、なんだけどさ……彼女の病気を知
 らなかったからって、これはどう考えたって言い過ぎだよな。それでま
 あ……結局、その時は美津子に、その医学本は渡らずじまいだったってわけ
 だ」

 医学本とは、

 直美の父親が読み漁っていた心臓に関するもので、

 中でも一番わかりやすそうな一冊だった。

 さらに直美の病気が載っている頁に、

『これがわたしの病気です』と、書き込んだしおりを挟み込んだ。

「もちろん、日記に書かれてることだから、どこまで本当だったのかはわから
 ない。だけど、とにかくこんなのを知って、僕もさ、自分にも責任があるっ
 て気が付いたんだ」

 ――こんなこと、どうせおまえは覚えてないだろ? 

 まるでそう言っているように、

 幸一は幸喜の顔を覗き込むような眼差しを向ける。

 幸一が小学校を卒業する頃まで、彼の父、本田博は週に一度、

 直美の入院していた病院でも診察を行っていた。

 そして優一が他界して、一年くらいが経過した頃だ。

 重篤な心臓病患者が転院して来るらしい、

 それもまだ小学生……という院内の噂に、博は他人事として見過ごせない。

 だから担当する医師に頼み込み、

 すでに届いていたカルテを見せてもらった。

 すると幸一と同じ年齢で、住所もそう遠くないことを知る。

 ところがその状態があまりに悪い。

 結局、彼にはどうすることもできず、かわいそうに……

 ただただそう思って少女のことを忘れ去ろうと心に決めた。

 ところがある日、夕食の時間にだった。

「父さん、やっぱり重い病気とか、なのかなあ?」

 隣のクラスの転校生が、体育の授業はもちろん、

 遠足などにも参加しない。 

 というのはやっぱり病気のせいだろうかと、

 幸一がいきなり聞いてきたのだ。

 その時ふいに、少女のことが脳裏に浮かんで、

「その子はもしかして、〝矢野さん〟って言うのか?」

 微かに記憶に残っていたその名に、幸一は目をまん丸にして頷いた。

「確か一年くらい前に、国立病院で手術を受けた女の子だ。そうか、やっぱ
 り、同じ小学校に通うことになったのか……」

 普通の人ならなんでもない……例えば、ちょっとびっくりした、

 そんなことでさえ大事に至ることもあると、

 博は少し大げさに説明した。すると幸一が間髪入れずに、

「大事に至るって……いったいどうなっちゃうの?」

 そんな問い掛けを速攻返し、

 母秀美の顔が途端に渋みを増したのだった。

 そんなことから半年くらいが経った頃、

 春休みから通い始めた英語塾で、幸一は偶然、向井幸喜と一緒になった。

「幸喜のクラスに、矢野って女の子いるじゃん。あいつって……普通?」

 塾からの帰り道、突然幸一がそう言って、幸喜の前に立ちふさがった。

「四年の三学期に転校してきた奴だろ? 幸一だって知ってるじゃないか? 
 四年までは、俺らとおんなじクラスだったんだからさ」

 なに言ってるんだよ――そんな顔をする幸喜に向けて、

 幸一はその真意を説明していった。

 普通の人なら平気でも、彼女の場合は病気になってしまうかも知れない。

 もしもそうなってしまえば、

 命に関わることだってあると、彼は大真面目な顔で幸喜に語り、

「僕の兄ちゃん、死んじゃっただろ? 死ぬってさ、ずっと先ってばかりじゃ
 ないんだよな、だからさ、幸喜……」

 ――優しく、してあげてくれな。

 囁くように、

 妙に大人びた感じでそんなことを続けて言った。
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