第5章 1994年 -   1 七月七日(2) 

文字数 1,412文字

             1 七月七日(2)


 このような興奮が、直美の身体にいいはずがない。

 だから最近、病室を訪れる時間帯にも気を付けていたのに……、

 ――どうして、今日に限って、午前中なんかにいたのよ! 

 様々な葛藤を押さえ込んで、順子は慌てて直美から背を向ける。

 そして置かれていた花瓶を手に取って、

「お花換えてくるから、この話は、また今度にしましょう」

 そう言い残し、
 平静を装って病室から出ていった。

 これまで少年と出会わなかったのは、

 いっときの偶然と、

 その存在を知ってからは彼女の計算によるものだった。

 日曜日でもなければ、
 中学生だという少年が午前中に現れることはない。

 だから夕方以降の時間帯と、

 休日にさえ気を付ければと考えた。

 確かに、滅多に口を開かなくなっていた直美が、

 最近になって普通に話をするようになった。

 ついさっきなどは、楽しそうに笑い声まで上げたのだから、

 順子だって嬉しくないわけじゃない。

 けれどもし、 少年と出くわしてしまえば、

 思わず何か口走ってしまいそうで怖かった。

 ――見た目は別として、本当は優しくて頭のいい少年……。

 それはつまり、
 見た目は決して、優しくもなく、

 いい子にも見えないということだ。

 だからそんな姿を目にしないよう、彼女なりに一生懸命注意を払った。

 ところがそんな努力も空しく、

 少年は学校の創立記念日に朝から病室を訪れる。

 さらにこの時、順子の方はかなり精神的に不安定だった。

「ご説明したいことがあるんですが……」

 できればご主人もご一緒に――続くこの言葉がなければ、

 順子もここまで動揺しなかった。

 きっとまた我儘言って、
 病院を困らせているくらいに思うことだってできたろう。

 しかし電話口のナースは、

 できればと言いつつ、有無を言わせぬ印象を十二分に匂わせる。

 ――何か、あるんだ。あの娘にとって、

   ずいぶんと良くない何かが、きっと……。 

 そんな不安を抱えながら、

 順子は受話器を下ろす間もなく稔の会社に電話する。

 そして居ても立ってもいられずに、すぐさま病院までやって来た。

 順子は己の言葉に後悔しながらも、

 やはり少年を直美と会わせたくはなかった。

 確かに少年のおかげで、直美はずいぶん明るくなった。

 しかしその一方で、最近二度も発作を起こし、

 今は面会時間が一日一時間までと決められている。

 けれど楽しい時間はあっという間に過ぎ去るものだ。

 だからそんな約束忘れ去って、

 話し込むことだってきっとあったに違いない。

「もうここのところは、彼も決められた時間をしっかり守ってますから、心配
 しなくて大丈夫ですよ、お母さん」

 さっきも長々と話し込んでいたようだ――ソファに座るなり、

 順子がそう言って少年の存在を伝えると、

 村上婦長が満面の笑みを浮かべてそんなふうに返すのだった。

 婦長に連れられ部屋に入ると、

 すでにソファに腰掛け、担当の医師が難しそうな顔で待っていた。

 さらにしばらくすると扉が開き、稔が頭を下げつつ緊張した顔を覗かせる。

 そして担当医の説明は、

 まさにそんな緊張が消し飛ぶような話だった。
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