第8章 直美の日記 -  4(2)

文字数 1,463文字

               4(2)


「どうも学校でも、辛いのをずっと我慢していたらしくてね、お母さんが様子
 を見てみたら、その時はもうぐったりしていて……」

 六年になったばかりの頃だった。

「おまえ! 何やってるんだよ! 気をつけろって!」

 そんな幸喜の声さえなければ、すぐに謝れていたかも知れない。
 
 しかし声はあまりに大きく、辺り一面に響き渡った。

 給食後の昼休みのことだ。

 美津子はいつものように、当時流行っていたドッジボールに興じていた。

 そんな時、ふと目をやったその先で、誰かと一緒の幸喜を見つける。

 ――あれ? 佐野さん?

 いつもなら真っ先に走り回っているはずの彼が、

 なぜか校庭の隅っこで、矢野直美と一緒にいる。

 普段直美は、滅多に校庭などに出てこないのだ。

 ――なに、話しているんだろう? 

 そんな気持ちを抱えながら、

 美津子は襲いかかるボールから逃げ回っていた。

 ところがボールを運良くキャッチして、

 視線をあちこちに向けている時だ。 

 思わぬ光景が目に飛び込んだ。

 幸喜と直美が顔を寄せ、何かを覗き込むような仕草を見せる。

 二人の距離は擦れ合うほどで、

 そしてその時、

 まるで申し合わせたように見つめ合い、

 嬉しそうに笑い合った。

 その瞬間、わけがわからなくなったのだ。

 気付いた時にはボールを投げ付け、

 ――しまった! 

 と思うと同時に、

 ――お願い! 

 ボールを難なく避けてくれるか、

 ボール自体が逸れてしまうか、

 そんなことを一瞬にして願ったはずだ。

 しかし美津子のそんな願いは、見事なまでに叶えられない。

 ドンという音が聞こえて、その後すぐに幸喜の大声が響き渡った。

 見れば直美は両膝を付き、顔を下に向け苦しそうだ。

 両腕で胸を抱えるようにして、見る見る前のめりになっていく。

 この瞬間、美津子は素直に思ったのだ。

 ――佐野さん、ごめん!

 後はこのまま走り寄って、彼女に向かってそう言えばいい。

 ところが次の瞬間だった。

 心配する幸喜の顔と、彼を見上げ、

 懸命に笑顔を向ける直美の姿が目に入る。

 この時、彼女の中で何かがフッと消え去った。

 ――冗談じゃないわ!

 消え失せてしまった何倍もの質量で、

 熱い感情が一気に心を埋め尽くすのだ。

「ちょっと! 大袈裟に苦しがんないでよ!」 

 思わず、口を衝いて出た。

「そんなふうにされたら、すっごく悪いことしたみたいじゃないの!?」

 幸喜が驚いた顔でこっちを向いた。

 しかしこうなってしまったら止まらない。

 美津子は直美の元に走っていって、

「悪かったわよ! でもね、絶対ワザとなんかじゃないからね!」

 そう言い放ち、直美のことを睨みつけた。

 そしてその時、苦悶の表情を見せながら、直美はひと言だけ呟いたのだ。

「だいじょうぶ……だから……」

 微かに笑顔を滲ませて、それは紛れもなく美津子に向けてのものだった。

 ところがこんな必死な声さえも、さらなる激情を生み出してしまう。

 ――いい子ぶって! 

 こんな感情が湧き上がり、

 ――こんなの演技よ! 幸喜の前だからっていい子ぶってる!

「当たり前じゃない! あんなに離れたところからのボールなんだから、それ
 からね! 後から痛いとか苦しいとか言い出すのはやめてよね! そんなこ
 と言われたら、わたしがどんどん悪者になっちゃうわ。だから、大袈裟にす
 るのはよしてちょうだい!」

 そう言い放ってすぐ、美津子はその場から逃げ出した。

 後ろから、

 幸喜の毒づく声が聞こえたが、

 とても立ち止まる勇気などは持ち合わせていなかった。
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