第5章 1994年 - 2
文字数 1,882文字
2
扉を開けた途端、そこに立っていたのは母、秀美だった。
「あら、お昼過ぎるって言ってなかった?」
すでに靴を履いている秀美は驚いた顔を幸一へ向け、
「ちょっと出てくるから、お昼は、冷蔵庫に入れてあるのを適当にね」
それでも以前のように、「ああだこうだ」とは言ってこない。
今から一年とちょっと前、
幸一がリーゼントにしだした頃の関係は最悪。
もちろん幸一は反抗的で、
一方秀美の方もちょっとしたことでヒステリーばかり起こしていた。
長男優一が他界して、やっとその傷が癒えかけた頃だった。
なんの前触れもないまま、幸一がいきなりの変貌を見せる。
中学に入ってまもなく、ある日突然口を一切利かなくなった。
夕食を一緒に取ることもなくなり、自室から滅多に出てこない。
学校へは通っていたが、
喧嘩が絶えず、秀美は何度も呼び出しを受けた。
一方父親はあまり家にいないこともあったが、
話したくなければ話さねばいいと、
秀美にも放っておくよう言うくらいだった。
しかし秀美の方はそうはいかない。
顔を見れば何が不満だと声にして、
いつも最後は声を荒げて涙を見せた。
ところがここ数ヶ月、そんなことが潮が引くように消えてなくなる。
以前と同じとまではいかないが、それでも声を掛ければ反応するし、
物言いも少しだけ柔らかなものに変化した。
もちろん素っ気ない態度には違いない。
それでもそんな変化によって、
秀美も少しずつ余裕を持てるようになっていた。
兄優一が亡くなった時、幸一は小学校の三年生。
それでも死については理解したし、二度と会えないことも知っていた。
しかし〝悲しみ〟というところでは、
両親とは比べようもないくらいに小さなものであったような気がする。
それが中学に入学する頃になって、兄が感じていた苦悩を想像し、
死が引き起こす悲しみの深さを考えるようになる。
そんなことのせいか、
優一が袖を通すことのなかった中学の制服を、
彼は別の学区で着ることを望んだ。
兄が通えなかった中学校に、自分が通うことを頑に拒んだのだ。
ということなら私立へとなるが、受験日前日から熱を出し、
結果彼は電車に乗って、隣町の公立中学に通うことになった。
さらにその頃から、
思い出の中にいる兄に追い付こうと、
無意味な感情を抱え込むようになる。
そうして荒れまくっていた頃に、幸一は直美と出会うのだ。
――一番辛かったのは、
間違いなく俺ではなく、
母さんと、父さんだった。
そうしてやっと、そんな事実に気付かされた。
ところが今度は、直美までが死んでしまうと耳にする。
もしもそんなことが事実なら、直美の前で平静でいられる?
これまで同様に、病室で笑顔になんかになれるだろうか?
そんな答えは、玄関で秀美の笑顔を見た瞬間に決まったのだ。
ついさっき、笑顔だった母親が、優一の死後しばらくの間、
生きる屍のようだったことを思い出したからだった。
――もういい……もうお終いにする。
これ以降会わなければ、余計な苦しみを知らないで済む。
彼女の行く末を知らないままなら、悲しむことだってないはずだ。
会えないことは辛いだろうが、
待ち受ける衝撃を思えば耐える意味はきっとある。
彼はそんな決意を胸にして、出掛けていく母の背中を見送っていた。
二日と置かずに現れていた幸一が、明日からは一切姿を見せなくなる。
そうなればきっと、
一週間もしたところで村上婦長から電話か何かあるだろう。
――そうなったら、まずはしっかり言ってやるんだ。
手術ができないとは、いったいどうしてなのか?
このまま放っておいたら、本当に彼女は死んでしまうのか?
そうして返った事実に対して、自分の気持ちを訴える。
そんなつもりだったのだが、
いきなりその夜、病院から電話が一本掛かってくる。
さらに驚くことに、それは村上婦長からではぜんぜんなくて、
「直美の父です。こんな夜分遅くに申し訳ない……」
そう聞こえた瞬間から、返すべき言葉を失った。
――直美に、何かあったのか!?
そう思った瞬間、強固だったはずの決心が、
いとも簡単に吹き飛んでしまった。
扉を開けた途端、そこに立っていたのは母、秀美だった。
「あら、お昼過ぎるって言ってなかった?」
すでに靴を履いている秀美は驚いた顔を幸一へ向け、
「ちょっと出てくるから、お昼は、冷蔵庫に入れてあるのを適当にね」
それでも以前のように、「ああだこうだ」とは言ってこない。
今から一年とちょっと前、
幸一がリーゼントにしだした頃の関係は最悪。
もちろん幸一は反抗的で、
一方秀美の方もちょっとしたことでヒステリーばかり起こしていた。
長男優一が他界して、やっとその傷が癒えかけた頃だった。
なんの前触れもないまま、幸一がいきなりの変貌を見せる。
中学に入ってまもなく、ある日突然口を一切利かなくなった。
夕食を一緒に取ることもなくなり、自室から滅多に出てこない。
学校へは通っていたが、
喧嘩が絶えず、秀美は何度も呼び出しを受けた。
一方父親はあまり家にいないこともあったが、
話したくなければ話さねばいいと、
秀美にも放っておくよう言うくらいだった。
しかし秀美の方はそうはいかない。
顔を見れば何が不満だと声にして、
いつも最後は声を荒げて涙を見せた。
ところがここ数ヶ月、そんなことが潮が引くように消えてなくなる。
以前と同じとまではいかないが、それでも声を掛ければ反応するし、
物言いも少しだけ柔らかなものに変化した。
もちろん素っ気ない態度には違いない。
それでもそんな変化によって、
秀美も少しずつ余裕を持てるようになっていた。
兄優一が亡くなった時、幸一は小学校の三年生。
それでも死については理解したし、二度と会えないことも知っていた。
しかし〝悲しみ〟というところでは、
両親とは比べようもないくらいに小さなものであったような気がする。
それが中学に入学する頃になって、兄が感じていた苦悩を想像し、
死が引き起こす悲しみの深さを考えるようになる。
そんなことのせいか、
優一が袖を通すことのなかった中学の制服を、
彼は別の学区で着ることを望んだ。
兄が通えなかった中学校に、自分が通うことを頑に拒んだのだ。
ということなら私立へとなるが、受験日前日から熱を出し、
結果彼は電車に乗って、隣町の公立中学に通うことになった。
さらにその頃から、
思い出の中にいる兄に追い付こうと、
無意味な感情を抱え込むようになる。
そうして荒れまくっていた頃に、幸一は直美と出会うのだ。
――一番辛かったのは、
間違いなく俺ではなく、
母さんと、父さんだった。
そうしてやっと、そんな事実に気付かされた。
ところが今度は、直美までが死んでしまうと耳にする。
もしもそんなことが事実なら、直美の前で平静でいられる?
これまで同様に、病室で笑顔になんかになれるだろうか?
そんな答えは、玄関で秀美の笑顔を見た瞬間に決まったのだ。
ついさっき、笑顔だった母親が、優一の死後しばらくの間、
生きる屍のようだったことを思い出したからだった。
――もういい……もうお終いにする。
これ以降会わなければ、余計な苦しみを知らないで済む。
彼女の行く末を知らないままなら、悲しむことだってないはずだ。
会えないことは辛いだろうが、
待ち受ける衝撃を思えば耐える意味はきっとある。
彼はそんな決意を胸にして、出掛けていく母の背中を見送っていた。
二日と置かずに現れていた幸一が、明日からは一切姿を見せなくなる。
そうなればきっと、
一週間もしたところで村上婦長から電話か何かあるだろう。
――そうなったら、まずはしっかり言ってやるんだ。
手術ができないとは、いったいどうしてなのか?
このまま放っておいたら、本当に彼女は死んでしまうのか?
そうして返った事実に対して、自分の気持ちを訴える。
そんなつもりだったのだが、
いきなりその夜、病院から電話が一本掛かってくる。
さらに驚くことに、それは村上婦長からではぜんぜんなくて、
「直美の父です。こんな夜分遅くに申し訳ない……」
そう聞こえた瞬間から、返すべき言葉を失った。
――直美に、何かあったのか!?
そう思った瞬間、強固だったはずの決心が、
いとも簡単に吹き飛んでしまった。