第9章 もう一つの視点 -  3(3)

文字数 1,405文字

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 そして、ちょうど同じ時分、

 幸喜が乾杯の顔付きを見せていた頃だ。

 ゆかりが一人タクシーに乗って、家路とは別の方向へ急いでいた。

 店を出てから携帯を見ると、

 電話とメール着信が山のようにあったのだ。

 ――まったくもう! 
 
 腹立ちを越えて呆れかえっていたが、

 数ヶ月前ならこんなのも幸せに感じたはずだ。

 ところが最近、思い出すだけで嫌気がさす。

 このまま無視し続ければ、携帯はとことん鳴り続けることになる。

 つい最近もこんなことがあって、仕方なく電源を切ったことがあった。

 その時男は......なんと家の前にまで現れる。

 チャイムが鳴ってドアを開けると、

 門扉の端で睨みつけるような目で立っていた。

 そんなことがあって、そろそろ潮時かとは思っていたのだ。

 そう思いながらも、なかなか切り出すことができないでいた。

 だからとにかく今夜のところは、男の欲望を鎮めてしまうしか術がない。

 近いうちに必ず、しっかり別れを切り出そう。

 そう心に誓って、男のアパートへ大急ぎで向かった。
 
 そして、そんなゆかりを知りもせず、由子もタクシーの中にいた。

 ただ、由子の場合は一人ではなくて、

 後部座席に幸一も一緒に陣取っている。

「わたし、ぜんぜん呑み足りないんだけど、本田くん、もしよかったらさ、こ
 れからもう一軒付き合ってくれない?」
 
 小料理屋を出た途端、由子がそう言い出したのだ。

 そして残された四人は、そんな二人をただ見送った。

 由子はすぐにタクシーを呼び止め、駅名と店の名前を運転手に告げる。

「駅のそばにあるちっちゃな店なんだけど、うるさい客はまず来ないし、なか
 なかね、いい店なんだ」

 由子の行き付けに向かうと聞いて、幸一はやっと笑顔になった。

「俺もさ、今夜はみんなの手前呑まなかったけど、実はずっと、ビールが呑み
 たくて呑みたくてさ……」と、まさに嬉しそうな顔を見せる。

 そこはこじんまりした炉端焼きで、

 オープンして三十年も経つ純日本風の店だった。

 席は囲炉裏を囲うようにあるカウンター十二席だけで、

 なんとも風情ある佇まいなのだ。

「へえ、由子って、こっち系の店も来ることあるんだ?」

「またあ、あなたまでそんなこと言うんだ。どうせ六本木辺りのクラブとか、
 ホストクラブばっかりって思ってるんでしょ? 言っておきますけど、わた
 し一人の時は、ほとんどがこんな感じのとこですから!」

「ふ~ん、それはまたずいぶんと、意外な組み合わせって、感じだね……」
 
 本当に驚いたという表情を見せ、幸一はキョロキョロと店内を見回した。

「まあいいわ、ね、ビールでいいでしょ? お姉さん、生ビール二つお願い
 ね!」
 
 そんな声でやっと、お姉さんと呼ばれた主人が店の奥から顔を出した。

 由子はその顔を笑顔で見つめ、

 「生ビール、二つね!」

 と、とびっきりの笑顔とVサインで声にする。

 ところが返ったリアクションは不安げで、

 それでいて充分、愉快そうな響きも含んでいるのだ。

「由子ちゃんどうしたの? うちは瓶だけじゃない……それ、忘れちゃっ
 た?」

「え? そうだったっけ?」

「そうよ、この三十年間、ずっとね……」

 ここでカウンターから顔を突き出し、

「それにね、あなたはここ十年、ずっとうちの常連さん、毎度、どうも……」

 妙に真面目くさった感じで告げて、

 最後の最後で口角だけをキュッと上げた。
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