第6章 高尾山 -  2(2)

文字数 1,086文字

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 しかしその後も、直美の嗚咽はしばらく続いた。

 そうして落ち着きを取り戻しても、
 
 これまでのように景色に目をやったりしない。

 幸一の背中に顔を押し付け、
 
 どこを見るとはなしに薄っすら目だけを開けている。

 そんな様子に老人たちも、気軽に声など掛けなかった。

 二つのリュックを交代ごうたい手にしながら、

 無言のまま二人の後ろに付いていく。

 さらにその後、幸一は一度も休憩を取らない。

 直美に帰ろうなんて言わないと、

 彼はひたすら地べたを見つめて歩き続けた。

 その一方で、幸一の背中で揺られながら、

 直美は過去の記憶へと思いを馳せる。

 初めて発作を起こした日のことや、

 術後、病院での日々などを、思うに任せて脳裏に浮かび上がらせた。

 もちろんそれらは、ほぼほぼ辛い思い出ばかり。

 そんな中唯一、幸一との時間だけは違っていた。

 それまでとは比べようもないほど、直美にとって輝くような時だった。

 なのに、そんな別格の時間とも、もうすぐお別れとなるかも知れない。

 ――どうせなら、知らない方が、よかったわ……。 

 知らないままであったら、別れを恐れる必要などなかった。

 そう思った途端、どこからか……熱いものが込み上げる。

 直美は、生きていたかった。

 自分ばかりがこんな目に、どうして遭わなきゃならないのか? 

 不意にそんなことが頭から離れず、再びその目に涙が溜まった。

「直美……」

 その時ちょうど、囁くような幸一の声。

「凄いだろ? ここって、実は東京都、なんだよな……」

 前方を見つめたまま、彼はそう言ってため息を吐いた。

 直美はゆっくり顔を上げ、幸一の肩越しに目を向ける。

 するとさっきまでの景色とぜんぜん違った。

 長く続いていた坂道が消え、

 辺りが開けて遠くの景色まではっきり見える。

「ここって……?」

 そう言った後、次の言葉が出てこなかった。

「すごいだろ?」

 幸一の声も、心なしか弾んで聞こえる。

 そんな声を聞いてやっと、直美もそこがどこだかはっきり知った。

「こんなにきれいに、富士山……見えるんだね」

「そうさ、こんなにきれいに、見えるんだよ」

 ――だから、きてよかったろ? 

 幸一は心だけでそう続け、直美をゆっくり地面に下ろした。

 そこはすでに、頂上を少し越えたところ。

 そしてこの時期にしては珍しいくらい、

 くっきりとした富士の山が見えている。
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