第9章 もう一つの視点 -  3(5)

文字数 1,629文字

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「いや、本当にごめん。いろいろ考えてたら、急におかしくなっちゃってさ」

 幸一はようやく......真剣な顔でそう言うが、

 由子の目には、不信の色がはっきりくっきり浮かんでいる。

 そんな彼女を目の前にして、彼はやっと覚悟を決めたようだった。
 
 グラスに残っていた水割りを飲み干し、

 そこで由子の顔をしっかりと見つめる。

「さっき、みんなの前でも言ったけどさ、彼女とのことは二十年も前のこと
 だ。最近じゃもう、滅多に思い出すこともなくなっていたよ。こんなことさ
 えなきゃさ、きっとこのまま、忘れていけたのかなってくらいだった……」

 こんなこと――とは、幸一の起こした事故であり、

 直美の遺した日記帳のことだろう。

「もちろん、付き合ったことくらいは何度かあるよ。でもホント、これがめぐ
 り合わせってことなんだろうな、結婚してもいいって思うとさ、知らないう
 ちにダメになっちゃったりね、まあ決定的なのは、やっぱり仕事仕事だった
 から、これまでずっと……」

「ふーん、でもさ、どうして? そんなことを考えてると、どうして笑えちゃ
 うほどにおかしいってことになるのかな?」

「ああ、そうそう、そうだったね、参ったな、やっぱり聞くの? それ……」

 おどけるようにそう言って、幸一は由子の顔を覗き込んだ。

 すると由子はここぞとばかりに大きな頷きで返すのだ。

 ――もちろん! 聞かせて頂きます!

 幸一の目をしっかり見つめ、そんな感じを顔一杯で表現した。

 そして彼女の眼差しに、幸一の顔から笑顔が消える。

 姿勢を正し、それから「笑うなよ」とだけ告げて、

 彼は再び正面を向いて話し出した。

「ホントにさ、結婚しないとかそんなんじゃないんだ。たださ、彼女と昔ね、
 約束はしてたなあって、さっきいきなり思い出したんだよ」

 そんな約束に、若い頃は縛られていたかもしれないと、

 そう思ったら急におかしくなったと言って、

 彼は再び、正面を向いたまま頭を下げた。

 それは昔、直美が彼に呟いたのだ。

「サンタクロースとしか、結婚しちゃダメだって言うんだ。だから、しないよ
 って約束した。それだけなんだけどね、まあ、これだけじゃ、まるで意味わ
 かんないよな……?」

「サンタクロースって男性じゃないの? サンタクロースと結婚って、したく
 たってできなくない? それっていったい、どういうことなの?」

「そうか、言われてみればそうだよな、それじゃまた、男色家ってことになっ
 ちゃうか、いかんいかん」

 戸惑い気味の由子の問いに、幸一はそう言って再び愉快そうに笑った。
 
 それからの幸一は、由子がいくら尋ねても、昔のことだし、

 もう忘れてしまったと言って、この話題に一切触れようとはしなかった。

 しかし少なくとも、結婚に踏み切らなかった理由の一つに、

 直美の存在が関わっていたことだけは確かだろう。

 もちろん忘れたというのもきっと嘘だ。

 さっき言い掛けた直美との話は、

 忘れてしまえるものではないように思えた。

 人は誰でも、忘れられない過去を一つや二つは持ち合わせている。

 小学校を卒業して二十六年。

 どうしてあんなことをしてしまったか? 

 なぜこうしなかったのかと、様々な後悔を胸に秘めながら、

 懐かしい面々との時間は、これからさらに増えていくに違いない。

 変更の利かない過去だからこそ、お互いあからさまにすることができる。

 それらがもっと遠い過去になっていけば、

 新たな真実だって語られるようになるだろう。

 由子は幸一が帰った後に、店でそんなことばかりを考え続けた。

 自分にも、いつかそんな日が来るのだろうか? 

 果たしてサラッと、誰かに言えてしまうのか?

 ――きっと、無理に決まってる。 

 家路に向かうタクシーの中、由子は久し振りにわんわん泣いた。

 離婚した時にさえ出なかったのに、

 涙がどうしようもなく溢れ出る。

 ――明日になったらぜんぶ忘れて、元のわたしに戻るんだ!
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