エピローグ その行方

文字数 2,560文字

              1  ゆかり
 

 リビングという空間だけは、何も変わっていないように見えた。

 それでもここ数日で、家の至るところから多くのものが消え去っている。

 ゆかりは薄暗い部屋の中、

 ポツンと一人、ダイニングテーブルを前に腰掛けていた。

 もう一時間、何もしないまま座り続け、

 ――どうして、こんなことになったのかしら? 
 
 ずっとそんな理由ばかりを探し、考えている。

 今ある現実は、決して欲したものではない。

 だから……、

 ――どうしてわたしだけ、こんなことになっちゃうの? 

 何度もそう思いながら、ゆかりはカッターナイフを突き立てたのだ。

 それはまだ、夕陽が明るく差し込んでいる頃だ。

 見るも無残に切り裂かれてしまったものが、

 今も辺り一面に散らばっている。

 元は、小学校の卒業アルバム。

 それが今や数え切れない残骸となって、ただの紙くずと化していた。

 ことの始まりは、つい一週間前のことだった。

 帰宅したばかりのゆかりの夫が、突然彼女の前に書類袋を差し出した。

 そしてその翌日には、茫然自失のままゆかりは離婚届にサインする。

 封筒の中身は、不貞を働いた数々の証拠。

 映し出されている姿はどれも紛れもない己自身だ。

 だからゆかりは必死になって、夫に許しを乞うたのだった。

 彼女にとって大事なものとは今の暮らしであり、

 何より大切なのは小学生の一人娘だと。

 ところが彼女の必死の言葉も、夫のひと言ですべて無駄だと思い知る。
  
 目を合わせようとしないまま、吐き捨てるように言ったのだ。

「あの子はもう、おまえとは暮らしたくないと、言っている」

 十一歳になる娘がそう言って、ゆかりの不貞を訴えたんだと彼は言った。

 その翌日、気付けば娘はもういなかった。

 それから今日まで、家には一度も帰っていない。

 夫の実家に身を寄せて、何をどうやってもゆかりとの面会を拒否し続けた。

 二年前、一度はきちんと別れたのだ。

 ゆかりにしては珍しく、別れの言葉を一方的に男へ告げた。

 ところが半年くらい前、近所にできた美容院で男と偶然出会うのだ。

 それから男は家にまで来て復縁を迫り、

 ある日ゆかりは断りきれずに受け入れてしまう。

 それからの半年間、

 道路から死角となっている裏口から、度々男を家の中へと招き入れた。

もちろんそんな時間は、娘が学校へ行っている間のことだ。

 なのにどうして?

 ――どうしてあの子が、知っているのよ!?

 不倫が知れるとすれば、そんな逢瀬からしかないはずだ。

 とはいえ会ってくれない娘から、ゆかりは真実を確かめようもない。

 しかし、知っていた、というのが本当なら、

 ――まさか、忘れ物でも取りに帰って……?

 体調を崩して、早引けでもしたんだとすれば、

 ――鍵は、ちゃんと掛けていたはずよ。

 ――だったら、あの子だってチャイムを……。

 そう思った時ふと、ゆかりは思い出したのだ。

「おい、今、誰か見てなかったか?」

 急にカーテンの方を指差し、そう言って男が動きを止めた。

 さすがに夫との寝室は使えない。

 だから夫の両親が泊まっていく和室で、

 カーテンを閉め切って事に及んだ。 

 玄関から入ってすぐ右手の部屋で、

 外から回り込めば庭からも簡単に入り込める。

 ――あの時、カーテンに少し隙間があったから……。

 ゆかりは大慌てで、素っ裸のままカーテンの隙間から外を覗いた。

 ――まさかあの時、あの子が……庭にいたってことなの??

 そんな恐ろし過ぎる疑念が、さらにゆかりを追い込んでいった。

 そうして現在、彼女にはなんにも残ってなかった。
 住んでいた家は残ったが、今や単なる建物に過ぎない。

 ――どうして、わたしだけがこんなことに……? 

 焦げ付くような思念に突き動かされ、

 再びカッターナイフを痛いくらい握り締めた。

 そうして不意に、枯れてしまったはずの涙がまた溢れ出る。

 わたしだけ……。

 それがどうしても許せなかった。

 明日は幸一と由子の結婚披露パーティーがある。

 さらにあと数ヶ月もすれば向井夫婦も長野に引っ越し、

 いなくなってしまうのだ。

「人間ドッグで腫瘍が見つかってね、幸い、それは良性だったらしいんだけ
 ど、それで彼、人生いろいろ考えたって、言ってたわ……」

 このまま突っ走って後悔するより、一度立ち止まって考えたかった。
 
 同級生から届いたワインを飲みつつ、
 
 あの夜幸喜はそんなことを告白していた。

 そうして話の最後には、
 
 大自然の中で暮らさないかと彼は美津子へ告げるのだった。

「ま、これまでいろいろあったけど、わたしたちには子供もいないし、とにか
 く彼と一緒に、一から頑張ってみようかなって思ってるんだ」

 美津子はさらにそう言って、長野での新生活について嬉しそうに語った。

 しかしこうなったゆかりにとって、もうそんなことは関係ない。
 
 きっとあと数時間、あるいは数日なのかも知れないが、

 いずれ必ずや破滅のときが訪れる。

 だからそんなことになる前に、自ら終わりにするしかない。

 今朝、男のマンションを訪ねたのだ。
 
 こうなってしまった責任を、男にもしっかり取らせるために。

 今も手にしている大型カッターで、男の首を力まかせに切りつけた。

 驚くくらい簡単に、首の三分の一くらいは切り込んでいたと思う。

 最初の十数秒はバタバタとあちこち動き回って、

 目を見開いたまま急にパッタリ動かなくなった。

 ――もう……やり残したことはない?  

 カッターナイフを握り締め、ゆかりは心にそんなことを思った。

 そんなものがあるとすれば、それは美津子のことに他ならない。

 けれどそんな心残りも、きっと明日には消え去ってくれる。

 不思議なくらいそうなると、ゆかりは信じ、疑いもしなかった。

 だからもうこの後は、直美のところへ行くだけだ。

 きっと両親は悲しむだろう。

 自分の娘が自殺して、

 それも浮気相手を殺してしまった殺人犯と化している。

 悲しむ以上に、苦しみを抱え込むことになるのだろう。

 しかしそんな時間も長くはないのだ。

 そう遠くないうちに、きっと二人もゆかりの元へくるはずだ。

 ――さようなら……。 

 そんな言葉は、十一歳の娘にだけ向けられる。

 それは意識が遠のき、

 やっと浮かび上がった安堵の思念でもあった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み