第5章 1994年 -   4(2)

文字数 1,240文字

               4(2)



「いい加減にしてください! いくら低山だって六百メートルですよ! 心臓
 が壊れかけているあの子に、そんなこと無理に決まってるじゃないです
 か!? あなたまで、いったい何を言ってるの?」

「わかってる。もちろんわたしだって、本当はそんなことをさせたくはないん
 だ、しかし、しかしだな……」

「じゃあダメだって言いましょう! 簡単なことだわ。それに誰が考えたっ
 て、そうするのが普通のはずよ! そうでしょ!? そうに決まってる
 わ!」

「お前の言っていることはよくわかる。もちろん、普通の病気ならそう考える
 だろう。これから、ちょっとの間だけ、それが一年だろうが二年だろうが、
 その間我慢していれば、ちゃんと治るというのなら、俺だって断固反対する
 さ、でも、直美の場合はどうだ? 子供を生むことどころか、結婚だってで
 きないまま……人生を終えてしまうんだぞ!」
 
 ――そんなこと、どうなるかわからないじゃない! 
 
 順子はすぐそう言い掛けて、

 先日聞いたばかりの医師の言葉を思い出した。

 ――このままなら、あと一年か、

 ――もしかしたら半年だってことも……ある。
  
 そんなことになってしまえば、

 稔の言うこと以前に、中学も通えないまま人生を終えることになる。

「だからって、そんなことをしたら……」

「あの子はわかって言ってるんだよ。そんなことは、きっとわたしら以上に
 だ」

「だったら……」

「だったらどうする? 先がないあの娘が、一番したいことだと言ってるん
 だ、彼と一緒にやってみたいと……そんな切なる願いを、わたしらが勝手に
 止めていいのか? ダメだなんて、言ってしまうことができるのか?」

「わたしは言えるわ! そんなことして、わざわざ寿命を縮めて欲しくないも
 の! 一日、いえ、一時間一分だって、あの子には長く生きて欲しいか
 ら! だから、止めてちょうだいって、わたしは言えるわ……言って、やる
 わよ……いくらだって……」
 
 間髪入れずのやり取りが、ここで少しだけ間が空いた。

 そして小さな深呼吸の後、稔は吐息とともに静かに告げる。

「それは……後に残されるものの、わがままだろう?」

「わがままだっていいじゃない! とにかく、いやなものいやなんだから!」

 順子はそう叫んだ後、稔が見たこともないような激情を見せた。

 きっと心の奥底では、稔の言葉だって理解している。

 けれどそこのところ以外、

 肉体を含む順子のすべてが拒絶している感じだった。

 ところが次の朝早く、
 きっと一睡もしていないだろう顔を見せ、寝ていた稔を起こして告げた。

「わたしは山なんかに行かないから、あなたが責任もって、あの二人をしっか
 り見守ってください」
 
 わたしは付いて行かない。 
 
 それがすなわち、順子の最後の抵抗だった。 
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