第3章 矢野直美 - 3(3)

文字数 2,330文字

 見知らぬ少年が、裏庭で漫画を読んでいる。
 
 たった、それだけのことなのだ。

 それでも、ああだこうだと声を上げ、

 時には大笑いを見せる姿は、眺めているだけで充分楽しい。

 さらにそんな時間にも、ちょっとした変化が訪れるのだ。

 少年が姿を見せるようになって、ちょうど一週間後のことだった。

 七日目のその日に、

 彼は丸椅子と漫画本の代わりに、サッカーボールを抱えて現れた。

 そして、たどたどしい動きとともに、その場でリフティングをし始める。

 きっと、吊られている腕のせいもあるだろう。

 しかしそれを割り引いても、

 彼のリフティングは決して褒められたものじゃない。

 初めの頃は二回と続かず、ボールはすぐにあらぬ方向へ飛んでいった。

 それでもそろそろ一時間という頃にはだいたい二回、

 ごくごくたまに、三回ないし四回は続くようになる。

 そんな少年の頑張る様子を、直美は毎日見守り続けた。

 午後一時に現れて、一心不乱にリフティングを繰り返す。

 すると初めは続かなかったそれが、日に日に少しずつだが上手になった。

 そんな姿に、映画でも観ているようなドキドキ感を覚える。

 ――がんばって! ほら! もう少し! 

 そんな言葉を、何度も何度も心の中で呟いた。

 そしていつの間にか少年は、

 リフティングの回数を数えるようになっている。

 さらに失敗して悔しがる様子から、

 目標としている回数がなんとなくだが窺い知れた。

 ――頑張って! あと五、四、三、二! ああ! 惜しい! 

 そのせいでより一層、一緒にボールを蹴ってる気分になれる。

 そうしてボールを蹴り始めて五日目、

 その日は久しぶりにザアザア降りの雨となる。

 ――これじゃあ、いくらなんでも、来ないかな……? 

 そんな不安を抱え込み、朝からずっと雨が止む事ばかりを考えた。

 しかし何週間ぶりとなる冬の雨は、午後になってもその勢いを弱めない。

 ところがだった。

 そんな土砂降りの中、彼が忽然と現れる。

 透明の雨合羽をしっかり着込んで、

 いつもの時刻、ボールと一緒に姿を見せた。さらに……、

 ――腕を吊ってない! 

 包帯だけは巻かれていたが、邪魔そうだった三角巾は消え去っている。

 もちろん現れた時にはびしょ濡れで、

 そのままいつものようにリフティングをし始めた。

 この瞬間、直美は一種、興奮状態に陥った。

 土砂降りの中、懸命にボールを蹴り続けるのだ。

 そんな姿を見ているうちに、まるで自分のためにしているように、

 きっと直美には思えたのかもしれない。

 心の中だけでの応援が、いつの間にか口からの声となっていた。

「一、二、三、四……」 

 リフティングを声にして数え、

 ――がんばれ! がんばれ! 

 同時に声援を心で送った。

 そしてそんな声援のお陰なのか、はたまた三角巾が取れたからか、

 いきなりその瞬間がやってくる。

「やったあ! 」

 こんな思わずの声がなければ、本当はもうちょっと続いたろう。

 ところが目標だった十回目、

 頭上からそんな大声が響くのだ。

 とうぜん少年は驚いて、思わずボールを抱え込んでしまった。

 さらにその時、直美は彼の驚きには気付かないまま、

 嬉しさのあまり手まで叩いて喜んだ。

 降りしきる雨の中、

 彼は見上げた先にそんな姿を目にしてしまう。

 そしてその翌日、前日とは打って変わってよく晴れ渡る。

 少年も変わらず現れて、いつもと同じようにリフティングを始めるが、

 途中何度もボールを手にして遠慮がちにだが上を向いた。

 ところが何度見上げても、

 そこにはなんにもありゃしない。

 窓はしっかり閉められて、カーテンまでが引かれている。

 なのに何度も眺めては、少年は再びボールを蹴った。

 直美は昨日、人生で一番心臓の鼓動を力強く感じた。

 息苦しささえ感じて、

 このまま死んでしまうと恐怖を思ったほどだった。

 だからもう一回こんなことが起きれば、今度こそ自分は死んでしまう。

 本気でそんなことが心配で、

 かと言って見ないという選択はできそうもない。

 だから直美は考えた。白いカーテンを少しだけめくり、

 細い隙間に顔を近付けこっそり覗く。

 こうすれば、こっちを見ているってわかりっこない。

 そんな確信はあるのだが、

 少年が見上げる度に、それはそれでドキドキはする。

 そんな直美の見つめる先で、少年は見違えるように上手かった。

 腕を固定してないからか、動きがぜんぜん軽やかに見える。

 一昨日までは十回でさえ四苦八苦だった。

 なのに今日はあっという間に五十回目をクリアーだ。

 ――凄い! 凄い! 凄い! 

 自分のことのように嬉しくて、

 直美はドキドキしながら彼の動きに集中した。

 やがて少年は百回を達成し、そのまま二百回目まで到達する。

 そこで自らボールを手にして、不意にその顔を上げたのだ。

 その瞬間、直美の身体に電気が走った。

「何してるの?」

 そんな声が掛からなければ、しばらくその体勢のままでいたはずだ。

 じっと、動きさえしなければ、

 見えたとしたって人形か何かだと思ってくれる。

 そんなふうに思っていたのに、「何をしている」と聞かれて、

 まさか覗き見していますとも返せない。

 だからすぐそばに立った声の主へ、

 直美は咄嗟の言葉を返してしまった。
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