第3章 矢野直美 - 1  92年夏、そして、冬へと(2)

文字数 1,900文字

           1  92年夏、そして、冬へと(2)


 元々直美は、私立受験の予定だった。

 当然それは諦めるしかない。

 となれば、公立中学にいくことになるのか? 

 そんなことを尋ねても、

「まず今は、病気を治すことだけ考えましょうね」

 なんて感じばかりが返ってくる。

 ――退院なんてできないんだ。
   みんな、嘘吐くの下手過ぎだよ……ホント、笑える。

 そんな感情に押しつぶされそうな毎日が過ぎ、

 年が明け、何も変わらぬ日々がひと月くらいした頃だった。

 またまた直美が些細なことで興奮し、

「もうこんなところにいたくない!」

 そう叫んだかと思うと、
 困惑する母親の手を振り切り、病室を飛び出したのだ。

 後を追う母親の声が、廊下を伝ってナースステーションにも響き届いた。

 何事かと顔を上げると、
 久子の前を駆け抜ける直美の姿が目に飛び込んでくる。

「直美! 走らないで!」 

 慌てて通路に出た久子の背後から、再び母親の声が響き渡った。

「直美ちゃん! 止まってちょうだい!」

 続けてそう叫んだ久子に、それはまさしく従ったかのように映る。

 久子の声とほぼ同時、ゼンマイが切れてしまったおもちゃのように、

 直美の脚がよろめくようにゆっくり止まった。

 それからスコンと膝を付き、

 久子の到着を待たずに胸を押えて倒れ込んだ。

 その時彼女の状態は、まさに危機的状況と言えた。

 それでも直美は、
 己の意思とは関係なくだが――なんとか一命を取り留める。

 もうダメか? 

 というところから、

 弱々しくも鼓動を止めることなく響かせ続けた。

 もし、もう一度、こんなことが起きてしまえばもう次はないと、
 
 医師はそう前置きをして、両親二人に告げるのだった。

「病院にいることこそが、彼女にとってはマイナスのようです。そうかと言っ
 て、普通の生活をして頂くわけにもいかない。もちろん、薬を使用するとい
 う方法もあるんですが、それは彼女の場合、あまりに、かわいそうという
 か……」

 それなりの薬を処方し、気分を強制的に落ち着かせる。
 
 そうして一定期間で完治するというなら、 
 
 使う意味はあるのだろうと医師は言った。

 しかし当然、そうなる可能性はないに等しい。

「どこか、患者が興奮せずにいられる場所で、ここでの生活と同様に暮らして
 いただく。わたしくどもの申し上げる注意点がしっかり守れて、定期的にこ
 こへも通うことが可能なところ、もちろんご自宅でもいいんですが、そうな
 るとどうしても、以前の生活がしたくなってしまうでしょうから、できれば
 ご自宅以外がよろしいんですが……」

 そしてその近くにも、ある程度設備の整った病院がある。
 
 そんなところで、
 
 直美はそれからそう経たないうちに生活することになったのだ。

 直美の母、順子は群馬県の山間部生まれで、

 生家は百年以上前に建てられた古民家だった。

 そしてきっと、健在である祖父母の手入れによるのだろう。

 充分快適に過ごせそうな佇まいで、

 結果順子と直美が移り住み、父、稔が週一ペースで通うことになった。

 土曜日の朝早く家を出て、昼には家族水入らずで昼食を取る。

 そんな時、直美の好物などを持ち込むこともあったが、

 大抵の場合は順子とその母の作る田舎料理がズラッと並んだ。

 それから稔は一泊だけして、次の日午後にはいなくなる。

 そうして直美は思うのだった。

 ――お父さん、お母さん、ありがとう。 

 もちろんこれまでだって、感謝の気持ちはしっかりあった。

 しかし病院にいる頃は、周りすべてが無機質的で、

 季節の移りだって意識しないとわからない。

 様々な感情に押し潰されそうで、

 ――どうしてこんなところに、わたしはいなくちゃいけないの? 

 そう思う気持ちが何より優ってしまい、

 とても両親の気持ちを思いやる余裕なんてなかったのだ。

 ところがここ群馬には、病院とは決定的に違うものがある。

 消毒薬の匂いではない、普通の生活でしか味わえない空気に包まれ、

 素直に感謝を思えるようになれたのだった。

 それでも基本、普段はやはり車椅子での生活だ。

 それだって一日のうち、ごく限られた時間しか許されてはいない。

 しかし直美はしっかりと生活し、

 制約はやたら多かったが、

 それでも病院とは大違いの空間にいたのだった。
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