第6章 高尾山 -  1  8月24日(2) 

文字数 1,700文字

            1 8月24日(2)


 夏休みに入って、幸一はほぼほぼ毎日直美のところへ顔を出した。

 話をしたり、テレビを一緒に眺めたりと、

 特段、何をするわけではなかったが、それでも直美はそんな時、

 何がそんなに嬉しいのかというくらいによく笑った。
 
 そんな期間に、直美は一度も発作を起こさない。

 それどころか悪くなる一方だと言われていた心臓が、

 少しだけその機能を上向かせ、医師が驚く顔を見せたのだ。

 さらに偶然、幸一がたまたま直美の病室に居合わせる。

 医師からの言葉にホッとした表情の順子の前で、

 彼は誰に言うとはなしに声にしていた。

「最近彼女、毎日よく笑ってるから、だからきっと、病気の方が逃げていくん
 だ! だから具合もいいし、この間なんて……」
 
 ――一階から四階まで、階段で往復できたんだぜ! 
 
 思わずそう言い掛けて、慌てて口をつぐんだのだった。

 それからも、そこそこいい感じの状態が続き、

 両親は大いなる不安を抱えながらも二人でのことを許す気になった。

「じゃあ、ゆるゆると、行きますか?」

 幸一のそんなひと言に、直美は嬉しそうに笑顔を見せる。

 そしてそのまま両親の方へ向き直り、笑顔を向けつつ頭を下げた。

 たった数秒間のそんなシーンは、直美の気持ちが溢れんばかり感じられる。

 だからこそ、幸一は強く思うのだった。

 ――絶対に頂上まで行って、元気にここまで戻ってくるんだ!

 きっと彼のこんな決意を、直美も存分に感じているだろう。

 それからしばらく黙ったままで、

 直美が口を開くのはケーブル乗り場に着いてからだ。

「でも、なんか変だなあ……なんだか、幸一くんじゃないみたい」

 乗車の列に並んでいると、急にそんなことを言い出したのだ。

「おかしいかな?」

「ううん、きっと、見慣れてないだけだよ」

「まあな……俺もまだ、実はピンとこなくてさ」

 幸一はそう言って、頭左右を両手で思いきり掻き上げる。

 それは今朝、日が上がり始めたばかりの頃だ。

 そんな早くに矢野家へやってきた彼は、

 べったり撫で付けたリーゼント姿ではなくなっていた。

 洗いざらしの髪で現れて、直美以上にその両親を驚かせる。

「でも幸一くん……今の方がきっと、女の子にモテちゃうね」

 少しだけ神妙な顔になって、直美は急にそんなことを言った。

「幸一くんって、わたしが病気じゃなくても、こうやって一緒に、居てくれた
 かな?」

「そりゃあ、病気じゃなけりゃ、逢えてないかも知れないからな」

「ううん、そうじゃなくてね、わたしが病気だから、だから一緒に居てくれる
 わけ? 重い病気で、わたしがかわいそうだから?」

「かわいそうだからなんて、俺は思ってないさ。だから、それは違うよ……」

「じゃあ、なんで一緒に居てくれるの? ねえ、どうしてなの?」

 幸一の顔を覗き込んでくるその顔は、どう見たって真剣そのものなのだ。

 なんで一緒に居るって? 

 直美が頼んできたからに決まってるだろ? 

 そう言ってから、大声で「うそうそ」と続けて大笑いする。

 そんな軽いジョークで言い返せれば、どんなに楽かって一瞬思った。

 ところがそんなこと言える雰囲気じゃまるでない。

 顔付きからその口調まで、いつもとまるで違っている。

 もちろん彼女が聞きたい答えの意味は、幸一にだって察しが付いた。

 けれどそれに近しい言葉さえ、その頃の彼には声にするのも難しい。

 そんな窮した状態を、響き渡った駅員の声が救ってくれた。

 いきなり声が響き渡って、二人の並んだ列も前にぞろぞろと動き出す。

 直美の方もそれ以降、初めてのケーブルカーに興味津々、

 さっきの質問など忘れてしまったように見えていた。

 そうしてしばらく、

 直美は本当に楽しそうで、幸一までが幸せな気分一杯になる。

 いつまでもこんな時間が続けばいいと、

 彼は心の底から思うのだった。
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