第7章 変化 -  2

文字数 2,210文字

                2


 それから四ヶ月後、
 幸一は期末試験の結果を持って、直美の病室を訪ねていた。

 その頃になると、
 彼は病室に入った瞬間から、もう帰り際のことを意識する。

 初めて唇を重ねた翌日、

 幸一が帰ろうとするといきなり目を閉じ動かなくなった。

 顔を突き出し、

 顎を上向き加減にする彼女は、

 明らかに幸一を誘っている。

 ――マジかよ!? 

 そんな直美に初めのうちは、とことんドギマギしていたのだった。

 しかしそんなのを重ねるうちに、
 
 病室に入った時から、その瞬間を待ちわびるようになる。

 その日もささやかな秘め事をしっかり終わらせ、

 週末まで逢えない寂しさを顔にちょっぴり滲ませる。

「また、今度の日曜も絶対にくるよ。でももしかしたら、ほかの日にもきちゃ
 うかもな」
 
 そんなことを最後に言って、幸一は名残惜しそうに帰っていった。
 
 ただ実際は、四ヶ月で学校帰りに顔を見せたのは、

 直美の誕生日ともう一日だけ。

 だからと言って頑張っている彼に、もっときて欲しいとも言えないのだ。

 そうしてそんな別れから少し経つと、

 いつも決まって稔が病室に顔を見せる。

「彼は、今日も来てたのか?」

 病室に入るなり笑顔を見せて、彼は開口一番そんなことを聞いた。

 稔も以前は、休日の午前中に見舞っていたのだ。

 ところがある日直美から、見舞いは午後にして欲しいと頼まれる。

 初めはどうしてだろうと思っていたが、

 すぐに幸一が原因らしいと気が付いた。

「しかしなんだな、一学期に比べると、こりゃずいぶん成績が上がってるじゃ
 ないか、これはホント、素晴らしいもんだ。お母さんが見たら、きっと目を
 丸くして驚くぞ!」
 
 幸一が置いていった成績表を手にして、稔が嬉しそうな顔でそう言った。

 すでに成績だけなら、とても不良などと呼べないくらいだ。

 しかし順子は受験する高校名を直美から聞いて、
 
 身の程知らずと大笑いを見せていた。

「そう、確かに成績は上がってるんだけど、でもまだ、平均偏差値六十ちょっ
 とでしょ? 彼の目標は七十越えだから、本当は、まだまだなんだ」
 
 彼、と来ましたか……。
 
 そんな軽いショックを受けながら、稔はさらに問い掛けた。

「偏差値七十って、そりゃいきなり凄すぎだなあ。いったい幸一くんは、どこ
 の高校を受けるんだ?」
 
 そうして返ってきた答えは、稔でも知っている一流高校の名前だ。

「どうしてまたいきなり、そんな高校受けようなんて思ったんだろうな
 あ? 直美は知ってるのか? その理由を……」

「もちろん、知ってるよ」

 はち切れんばかりの笑顔を見せて、直美が即座にそう言い返す。

「そうか、知ってるのか、じゃあ、お父さんにも、その理由とやらを教えてく
 れるか?」

「え〜、内緒だって言われてるんだけど〜」

 そう言って口をすぼめた直美だったが、

 それから一分も経たないうちに、すべてを話してしまうのだ。

 聞き終わって一瞬、稔は唖然とした顔をして、 

「おいおい、それってホントの話かあ?」

「なんだって、ホント、笑っちゃうね」

「しかしまあ、ずいぶん短絡的というか、なんというか……」

 そう言った後、ふうーと大きく息を吐いて、

 なにやら感慨深げに天井を向いた。

 そうして再び直美を見つめ、

「でも、なんともありがたい話だよな、よかったな……直美……」

 静かな声でそう告げて、直美の視線から逃れるように横を向いた。

 幸一が目指している高校は、病院の最寄り駅から電車一本で着いてしまう。

 もちろん到着駅からはそこそこの距離を歩くことになる。

 それでもそこに通うことになれば、

 学校帰りに毎日だって来れるし、さらに彼は直美にこうも言った。

「高校でも一生懸命勉強してさ、俺、医者になって直美の病気を治すから、だ
 からさ、俺たち大人になったらさ……」
 
 ――わたしはきっと、大人になんかなれないわ。 

 まるで言葉の隙間を埋めるように、そんな思念が浮かび上がった。

「大人になったら、結婚しよう!」

 ――だから結婚なんて、できるはずないの……。 

「だからそれまで、ちゃんとがんばって待っててくれよ!」

 ――お願いだから、そんなことわたしに言わないで……。 

 そう心で返しながら、直美は幸一の顔を一生懸命見つめていた。

 そうして少しずつ、不安そうな表情に変わっていった幸一へ、

 直美はやっと静かな声を返すのだった。

「それって、本当に本気? 幸一くん……」

「一応、本気なんだけど……ダメ、かな……?」

「ううん、そんなことない」

 ――すごく、嬉しい……。 

 それは小さな呟きで、きっと幸一には届いていない。

 その後、二人の唇が離れた時、直美の目には涙があった。

 幸一はそれを喜びの涙と勘違いしていたが、

 本当のところはそうじゃない。

 幸一の気持ちはもちろん嬉しい。

 だからこそ直美は、自ら唇を近付けていった。

 けれどその時、

 喜びよりもなん倍も強く、

 諦めという悲しみが、

 涙を溢れ出させていたのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み