第2章 埋もれていた記憶 - 1

文字数 2,032文字

          第2章 埋もれていた記憶

               1


「お、リュパンじゃん! 俺もこれ、大好きなんだよ!」

 そんな幸喜の声が、いきなり教室に響き渡った。

「江戸川乱歩って暗いじゃん、だから俺、こっちの方が好きなんだ。なあ、読
 み終わったら貸してくれない? これ、まだ読んでないやつだ」

 六年生になったばかりの頃、教室の片隅で幸喜がいきなり声にしたのだ。

 彼の見つめる先には直美の驚いた顔があり、

 その手には文庫本が握られている。

 それは児童向けの本などではなく、

 創元推理文庫という本来大人が読むべき本だ。

 ――わたしなんて、親に言われて嫌々だっていうのに……。
 
 多少の嫉妬心と、ある種、尊敬にも似た驚きを感じた。

 そしてその日を境にして、

 二人が話しているところを時々見掛けるようになる。

「いやあ面白かった! 俺、三日で読んじゃったよ。お礼にこれ貸してやるか
 ら、読んでみろよ。HGウエルズって言うんだ、この作家……」

 忘れた頃たまに、という感じではあった。
 
 それでもふと気付くと、そんな声が直美へ向けられている。

 ――いきなりなんで? どうして仲良くなってるのよ!? 
 
 そんな美津子の当惑が、ある日突然敵意に変わる。

「せっかくの運動会なんだからさ、競技はしなくたって校庭には出て来いよ。
 太陽を浴びちゃいけないってことはないんでしょ……?」

 そう言って伸ばした幸喜の手に、直美が素直に手を差し出していた。

 二人の手が重なっていたのは、

 直美が立ち上がるまでのほんの短い間だ。

 直美の意思を知った幸喜は、

 「じゃあ」とだけ言ってさっさと教室を出て行ってしまう。

 その後すぐに、直美も自分の椅子を抱えて校庭へと出ていった。

 この時初めて、美津子の心にほんの小さな痛みが芽生えた。

 そうして日に日に、
 トゲのように小さかったそれが、敵対する意識に変質していく。

 多分幸喜はその頃、直美の病気について何か知っていたのだろう。

 太陽を浴びても大丈夫――どんな理由からかはわからないが、

 そんな知識がきっとあったに違いない。

 転校して来た当初は当然、体育に出ない理由を直接尋ねる男子もいた。
 
 ところがそれから約二年間、

 彼女は一切そんな理由について触れようとしない。

「絶対にサボりだ! おい矢野! おまえちゃんと体育に出ろよな!」

 そんな声を向けられても、

 いつも下を向いて、ただただ時の過ぎ去るのを待っている。

 そうして五年生で同じクラスになった頃には、

 誰もそんな言葉を口にはしない。

 きっと、教師の言葉もあったのだ。

 しかしそんなこと以上に、
 
 ――絶対、何かあるんだ……。

 そう思わせる何か……それなりに、軽くはない理由の存在を、

 子供心に感じ取っていたに違いない。

 彼女は転校してきた当時、長い髪を後ろで一本にまとめていた。

 きれいなおでことクリッとした目が印象的で、

 美津子もその頃、「美人さんだ……」なんて印象を持ったのだ。

 しかしそんなことも、何人かが感じたくらいのこと。

 クラスの大半は何かを思うこともなく、

 最初はごくごく普通の女の子という印象だった。

 ところが六年生を間近に控えたある日のこと、

 直美が束ねていた髪を肩に垂らして現れた。

 丸見えだったおでこがおおい隠され、

 眉毛まで掛かった前髪のすぐ下で、

 瞳がこれまで以上に印象的に見えている。

 ただ、それだけだった。

 それだけのことなのに、彼女の見え方が驚くくらいに変化する。

 それから急に、直美はクラスできれいになったと評判になった。

 さらにその頃から、
 ふと気付けば幸喜の視線が彼女の方に向けられている。

 ――その頃のわたしには、そんなことがどうしても……許せなかった。 

 そんな気持ちを思い出すのは、

 やはり卒業アルバムを手にしてからだ。

 そうして見つけた写真のおかげで、

 忘れ去っていた記憶が浮かび上がってきたのだった。

「矢野……さん……」

 思わず、声になっていた。

 かすれるような呟きとともに、

 当時の感情をはっきり思い出したのだ。

 その瞬間、美津子の見つめる先に、

 少しだけ微笑んで写る矢野直美の顔がある。

 それはもう間もなく夏休みになろうという頃、

 朝一番の教室で撮影された写真だ。

 クラスの生徒が一人ずつ、みなそれぞれ思い思いのポーズで納まっている。

 矢野直美も、あの頃のまま、

 なぜか向けられたカメラに目を向けず、少しうつむき加減に写っていた。

 そして、そんな写真のおかげで、

 撮影前日に起きていた事実を二十五年ぶりに思い出した。

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