第58話 堤 佑介Ⅷの6

文字数 4,707文字



篠原はようやくやめて、別のことを言いだした。

「そういえば、こないだ、You Loopで、三島由紀夫が高校生の男女二人にインタビューを受けてるのを聞いたんだよ。三島はなかなか真剣に答えていて、おもしろいんだな。そんなかで、男の子のほうが『女って考えるのかしら』って聞くんだ」

「女の子の前でか」

「そう。ああいうことが半世紀前のあの時代にはまだできたんだな。俺は羨ましいと思った」

「三島はどうした」

「大問題が出てきた、と笑いながら、男が考えるのと女が考えるのは全然違うというんだ。女の考えは自然や大地に近いのに対して、男はいつも自然や大地から遊離しちゃってて、論理的で整理されて見えるけど、じつはいつの間にか大地から置き忘れられてる……」

「それはズバリとうまく言ってくれてるな。俺も賛成だ。」

「そうなんだ。それで、女の子が、女の人のほんとの生き方は何ですかって聞くと、三島が、『それは自分には良妻賢母としか言えない、人間の母だよね、男がそこからくみ取る源泉のようなものだ』ときっぱり言う。その後がまたいい。女は愛される存在と常識は言うけれど、じつは女こそ愛の天才だと言うんだな。男は夾雑物が多すぎて、愛で世界を包むなんて絶対できない、と……」

「良妻賢母はともかくとして、女が愛の天才だというのは、本当だな。しかしそういうことを最近言う人はいなくなった。文学者がもっと自信をもって言うべきじゃないのかな」

「それは、『文学者』なんてもういなくなったと言い換えることもできる。この前、恋愛が自由化したために、男女の命を懸けた出会いがなくなってしまったって話したよな。あれと通じるんじゃないか。少なくとも、近松はもう出ない」

「なるほどそうだな。だから俺は、これから結婚や家族がどうなるかが気になるんだ。ていうか、大げさに言えば、途上国の多産系移民が押し寄せれば、先進文明の住民なんて衰退していく一方だろう」

「うーん。そうなると、もうそれは自然法則とつながってくる感じだな。動物でも水生動物はものすごく卵を産むけど、陸に上がるとあんまり産まなくなる。その連続線上にありそうだ」

「おい、それこそ発展途上国の国民を下等動物扱いするのかって、糾弾されそうだぞ」

「いや、そりゃもちろんここだけの話だけど、でも、日本人だって戦前は普通に5人くらい産んでたじゃないか。避妊が広まったのは戦後の話で、少なく生んで大切に育てるなんて思想が出てきたのも戦後だ。アフリカ系やインド・パキスタンなんかは、いまでも4人から6人は当たり前。文明が進めば進むほど、乳児死亡率が低下して、個人生活が大切になって、少子化が進む。これは社会学的な事実だ。そしてその社会学的事実が、じつはすっぽりと自然学的事実に包まれてるんじゃないか」

「やがてついにゼロ人に収斂していく、と」

「そう。途上国だって文明が行きわたれば、そのうち同じ運命をたどるぞ」

乱暴な仮説、と思ったが、たしかに当たっているような気がする。なんだかため息が出てきそうだ。後ろのカップルは相変わらずいちゃいちゃやっているが、彼らは結婚するのだろうか。子どもを作るのだろうか。

実際、私の周りを見回しても、中高年独身者や、結婚していても子どもが一人という人ばかりだ。

もっとも私個人のちっぽけな人生にとって、人類全体の運命がどうなろうと、知ったことではないとも言えるのだが。

そう考えて、ふと自分が曲がりなりにも「婚活中」であることに気づき、さっきの女性からのメッセージのことが脳裏をかすめた。心がざわめかなかったと言えば嘘になる。

しかしいまの自分には「生産性」がないと言えば、その通りなのだ。その意味では同性愛者と同じだ。メッセージを送ってきた相手にはもしかして「生産性」がある? と考えて、まだ写真も年齢も確かめていないことに思い至った。ひょっとして若い? とあらぬ期待を抱いたが、いやいや、五十代半ばの俺なんぞにと、あわてて打ち消した。



「そういえば三島は、結婚して子ども作りながら、同性愛者だったよな。それについては何か言ってなかったか」

「いい勘してるな。言ってたよ。男の子が、先生の作品には同性愛を扱ったものがあるが、自分たちは同性愛には生理的な嫌悪感を持つんだけど、そのへんはどうなんでしょうかと聞くと、三島は、公認された愛なんてのは、スーパーマーケットで売ってる愛みたいなもんで、文学はそういうところに主題を求めない。許されない愛、みんなからつまはじきされるような愛のうちにこそ、純粋性を求めようとするのが文学なんだみたいなことを言ってた。自分が同性愛者だとはさすがに言わなかったけどな。でもそのあと面白いことを言ってた。これまでは同性愛もそういう主題としてふさわしいと思ってたんだけど、最近じゃ、かなり社会に認められてきちゃってるから、同性愛者にとってはいいことだけど、文学としてはおもしろくなくなってきたってな」

「へえ。それは先見の明があるね。今の時代がまさしくそうじゃないか。杉山未久がLGBTの公認に危機意識を抱いているのも、裏を返せば、アブノーマルと見なされていた性的指向が、それだけ表通りをまかり通れるようになった証拠だよな。サヨクに政治的に利用されるのは別問題として」

「そうも言えるな。俺の教え子に、自分もゲイで、LGBTを研究してる若いのがいるんだ。彼と話したことがあってね。いまの60代、70代の人たちは、知られたくないから偽装結婚して無理をしてでも子どもを作ったそうだけど、40代以下だとそれはないそうだ」

「ああ、三島はその口かもしれないな」

「うん、たぶん。それと、渋谷区で同性カップルとしての入籍を公認して以降、すごくセンセーショナルに騒がれたろう。だけど、実際には、法的な婚姻を望む同性カップルなんて、そんなに多くないそうだよ」

「騒ぎすぎだな。娘と話した時も、親友から告白されたらどう思うって聞いたら、『親友だったらそんなのとっくにわかり合ってるよ』って怒られたっけ」

「うん。そのLGBT研究者も、知り合いに『なんであの人たちは権利権利と騒ぐのかね、黙っていればいいじゃん』と言われたそうだ。騒いでいるのはごく一部らしいな。ただ、自分の親に子ども――つまり孫だな――を見せられないことにはけっこう悩むと言ってた」

「なるほどね」



亜弥とこの前会った時に、山名さんの人生相談の本に書いてあったこと、その時考えたことを思い出した。本人の悩みよりも知った時の親の悩み、親に言えない本人の悩み。つまりこれもエロスの悩みであって、政治的な課題になるような問題じゃない。世代が変わればしだいに解決していくだろう。

「それともう一つ、世間は誤解してるけど、トランスジェンダーと性同一性障害とは、厳密には同じじゃなくて、トランスのなかにはゲイもバイもレズもいるんだそうだ。性同一性障害のほうは、はっきり医療の対象になる人を指すので、こちらは問診からホルモン療法、性別適合手術までのプロセスがちゃんと用意されてるらしい」

「ふーん。ややこしいな。そうすると杉山論文もその誤解を免れていないわけだな。つまり性同一性障害は、トランスの部分集合みたいなものと考えていいのかな。そういう性自認はいつごろ、どういうふうにはっきりしてくるのかね」

「けっこう早くて幼稚園ぐらいから違和感があったりするらしいよ。名前で困ったとか、中学生ぐらいだとプールや更衣室で同性の裸に感じちゃったとか、ともかく小さいころからのエピソードがしっかりあるかどうかが決め手なんだそうだ。こう説明してる俺も、複雑で、いまいちよくわからん。趨勢としては、トランスもだんだん医療の対象としては見なくなる傾向にあるらしい」

「それで思い出したけど、俺はね、昔からこう思ってるんだよ。明確な性同一性障害とか身体的な両性具有とかは別として、人間の性ってもともと過剰なものを抱えてるから、ゲイとかレズとかバイとかは、グラデーションになってて、置かれた状況次第で、誰でも、と言うと大げさかもしれないけど、かなりの部分が、移行できるんじゃないかってね。軍隊とか寄宿舎とか刑務所なんかじゃ、女がいないから、代わりにオカマ掘ったりするだろ」

「それは当たってるな。フロイトの言う『多型倒錯』ってやつだな。特に男はその傾向が強い。三島が言うように、ますます『生産性』と関係なくなって、大地から置き忘れられる」

「だからそういう男女のありようについての共通理解をみんながまず持ってから、ポリコレだのセクハラだのサベツだのの議論に踏み込めばいいって言ってるのさ。でないと、誤解から生じる差別や偏見はかえってなくならないだろう」

「堤、それはでも難しいぞ。集団をカテゴリーで区別するのは、言葉を使う人間の業みたいなものだからな。そこにまず偏見や差別への入り口は用意されてる。LGBTなんて言葉を反権力のための武器に使ってる連中が、かえって不必要な線引きをして、サベツの再生産をしてるって見方もできる」

篠原は、珍しく猫背をぐっと伸ばして向き直り、私を鋭く見つめた。

そのなんとなく厳粛な調子に、思わずたじろいだ。その通りだと思った。

キリスト教文化を強く引きずっている欧米には、反差別運動のためにそういう言葉を編み出さざるを得ない現実性があるのだろう。でも日本にはそういう宗教的な文化風土がないのに、お安くアチラから借りてきて、すぐ便利な道具にしてしまう。

役所なんかは特に、「サベツじゃー」の一言を葵の印籠のように突きつけられると、たちまち言うことを聞く。こういう空気、何とかならないのかな、と苦々しく思った。本当はこんな問題、一部の人が言挙げしているだけで、大多数の人の生活にとっては、関係ないはずだ。



そういえば、以前、所用で税務署に行ったとき、裏に20台以上止まれる駐車場があって、半分ほど埋まっている。そこに車を入れようとしたら、工事現場用のフェンスでふさいであった。係員が出てきて、「ここは身障者用です」と言うのである。なるほど「身障者用」と書かれた小さな札がわざわざ掛けてあった。

私は、「あの駐車している車の主はみんな身障者の方なんですか」と聞いた。すると黙ってフェンスを取り外してくれた。一応断らなくてはならないお役目らしい。ご苦労なことだと思った。

建物の表側には数台しか止める場所がなく、しかもちょうど申告時期だったので、多くの訪問者の行列ができていて、その整理のために駐車できないのである。

「あなたに言ってもしょうがないけど、これってバカらしいと思いませんか?」と柔らかく聞いてみた。係員は面倒くさそうに、「そういうことは上のほうの人に言ってください」と、予想通りの答えが返ってきた。

そうですね、と答えてその場は済んだが、考えてみると、「上のほうの人」の愚かな判断のために、せっかくの広い駐車場を、ほとんどいるはずのない「身障者」専用にしている。ほんの一部用意しておけばいいじゃないか。

しかも「ここはすべて身障者用」と命じられた係員の人は、いちいち断ってはフェンスを開けたり閉めたりしなくてはならない。可哀相だと思った。

「社会的弱者にウチはこんなに配慮してます」という表看板のために、係員の人は毎日、ドストエフスキーが『死の家の記録』で書いていたあの無意味な繰り返しという刑罰、あっちの水槽からこっちの水槽に水を移し替えたら、直ちにその反対をやらされるという空しい仕事を続けさせられている。シジフォスと同じように。

この人のほうがよっぽど弱者だ、と私は思った。
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