第68話 半澤玲子Ⅹの3

文字数 1,597文字



そして今日。

快適な気分で目が覚めた。ここのところあまりなかったことだ。顔を洗ってメイクしていると、下地やファンデーションのノリも悪くない。やっぱりねえ、と自分をからかうような気持ちになった。

だいぶ朝が冷えるようになった。でも青空が広がっているので、日中はかなり気温が上がるという。さあ、ともかく今日は張り切って出社しよう。



オフィスに入ってしばらくすると、新任の課長が部長と一緒に入室して、挨拶した。静岡支社から本社に戻ってきたという。

中田さんはどちらかと言えば温厚で不器用なタイプだったけど、今度の安岡課長は、いかにもシャープで有能なイメージだった。わたしより五つくらい年下か。これから経理は厳しくなるかもしれないと直感的に思った。

そういえば、この三日間、課長席が空席で、時々、藤堂さんが座って事務処理をしていた。

後で聞くと、藤堂さんにも新課長昇進の声がかかったのだけれど、受験期の子どもを抱えて重責を負いたくないので、お断りしたのだという。

わたし自身は、初めから総合職志望ではなく入社したので、この歳になっても役職にはついていない。



9日の送別会では、中田さんは、何となく固い表情をしていた。藤堂さんを含む何人かが送辞を述べ、わたしが花束を渡す役を仰せつかった。渡すときに目が合った。彼はわたしをちょっと長く見つめ、それから目を伏せた。

会が終わってしばらく経って、彼が廊下を急ぎ足に通り過ぎていくタイミングをとらえて、あの懸案事項について思い切って聞いてみた。

「課長。ちょっとすみません」

「え?」

「これまでいろいろお世話になりました。京都に行かれても、どうぞお体を大切にされて……」

「ああ、いやいや、こちらこそ。半澤さんも……」

「それで、ちょっと確かめておきたいことがあるんですが」

「何でしょう」

「今度のご転勤の件なんですけど、わたしが計算間違いして失敗したことがありましたよね。その責任を取られて今度の人事が……」

「え? ああ、そんなことがあったね。ありゃ、何の関係もありませんよ。だってちゃんと努力されて収拾できたんだし、それに支社とはいえ、昇進ですからね」

中田さんは、笑いながら手を振って、もう歩き始めていた。

「そうですか。よかった。それと、もう一つ……」

「ん?」

「申し上げにくいことなんですけど……課長がわたしを誘ってくださったことがあったでしょう」

「ん?……ああ、あれね……いや、お恥ずかしい。あの時はヘンなことをして申し訳ない」

「いえ、ヘンなことじゃないです。でももしかして、あのことを気にされてて、同じ職場に居づらくて自己申告されたのかななんて、わたし、勝手に気まわしちゃったんです」

中田さんは、今度はわたしのほうに向きなおって、しばらくこっちを見つめていた。言葉を探しているふうだった。それからはっきりと答えた。

「いやいや、そんなことありませんよ。自己申告なんて。ウチの人事がそんなこと聞き入れるはずがない」

中田さんは、わたしからまだ目を離さなかった。心なしか、うっすらと涙をにじませているように見えた。

「半澤さん……あなた、優しい人ですね。どうもありがとう」

そう言って、静かに頭を下げた。

やはりこの人は可愛い人だ、と改めて思った。いい人が見つかるといいのに。

「京都に行ったらいい人を見つけてください」とうっかり言おうとしたが、振っておきながらそれは大きなお世話だ。危うく踏みとどまった。

そのとき、わたしの立っている位置の斜め後ろのドアが開きかけた。中田さんはあわてて、「じゃ、これで」と言って足早に過ぎ去った。後姿が何となく寂しげだった。

少し出過ぎかと思ったけれど、とにかくしこりが取れたような気がした。

中田さんと私と二人だけで、短い送別会をやったわけだ。そっとしておけばいいのにと思って、相当躊躇したけれど、やっぱりやってよかったと思った。

中田さん、どうぞお仕合せに。
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