第90話 半澤玲子ⅩⅢの6

文字数 2,585文字



わたしたちは、夕ご飯の支度にかかった。

わたしは野菜切り係。エリはほうれん草のおひたしを作った。すぐにIHヒーターの上で、お湯が煮立った。食べきれるかしらと思うほど、たくさんの霜降り肉が大皿に並んだ。

赤ワインで乾杯。とても風味があるけど、ちょっと変わった味だったので、これどこのワインかと思って、ボトルを見た。

「モルドバってウクライナとルーマニアの間に小っちゃい国があるでしょう」

「あ、知らないわ」

「元ソ連領で、冷戦崩壊後に独立したんだけど、経済が厳しくて、日本も貧国救済の名目で体制づくりに貢献したことがあるんだって。古くからワインの名産地だったらしいのね。ヨーロッパのワインと違うでしょう」

「うん。すごく風味があっておいしいね。こんなの、ふつう、お店で売ってないでしょう。どうやって手に入れたの」

「そこが、物流企業に勤めてる特権よ。ルートはよくわからないんだけど、同僚が何本か手に入れてきて、分けてくれたの」

わたしたちは、しばらくの間、二人だけの宴を楽しんだ。


黙っている時間が少し続いた。エリのこれからについて思いをめぐらした。それからわたしは思い切って口火を切った。

「エリ、考えたんだけどさ、エリはやっぱり闘うべきだと思う」

慎重に結論を出したつもりだった。けれど唐突だと思ったのか、彼女はちょっといぶかしげな表情を見せた。それから、「レイはいつから恋愛至上主義者になったんだ」と冗談めかして言った。

あ、それは当たっていなくもない、とひそかに思った。佑介さんとの恋に浸っているいまの自分は、無意識のうちにそこで生きることに最重要な価値を見出しているのだろう。でもそれを悟られないように、一般論めかして答えた。

「っていうより、いま生きてて、何が自分にとっていちばん大切かってことよ。それは別に恋愛じゃなくてもね。自分が打ち込んでる、何か。創作活動でも、子育てでも、」

エリは、わたしの常ならぬ調子に戸惑いを感じたらしかった。しばらくわたしの目をじっと見つめた。それから溜息をつくように、言った。

「ありがとう、レイ。とてつもなく難しいけど、やってみる。女の闘いね」

「わたし、エリのためなら何でもするから。無責任な言い方するけど、これって、道徳とか法律とかの問題じゃないと思うのね。そりゃ、もう相手を十分傷つけてるわけだし、これからももっともっと傷つけることになるかもしれない。人の家庭を壊しちゃうかもしれない。そうなってもわたしはエリの味方よ。反対に、もしエリが迷った挙句、やっぱりそれはできないって決断したなら、それにはそれだけの理由があるわけだから、その場合でも、わたしはエリの決断をサポートするよ」

「ありがとう。なんかファイト湧いてきた」

エリは珍しく感情を高揚させたような調子で言った。

わたしは、エリのグラスにモルドバのワインを注いだ。こんなにはっきりとものを言ったのは初めてなような気がする。やはり何かが私を強くしているんだと思った。


偶然、トイレに入っている時に携帯が鳴った。佑介さんだった。胸がときめいた。

「いま、大丈夫?」

「うん。友だちの家にいるんだけど」

私は声をひそめた。

「あ、じゃ、あとにしようか」

「ううん、いいの。いまトイレの中。フフッ。どうぞ」

「あの、ただ声が聞きたかったんだ」

「うれしい。いまひとり?」

「そう。また会いたい」

「わたしも。いつにしよう」

「あさっては?」

「火曜日ね。大丈夫よ」

「じゃ、この前と同じ時間、同じ場所でいい?」

「わかったわ。ゆうくん、大好き。チュッ」

「チュッ。じゃね、れいちゃん」

水を流してトイレから出た。聞こえちゃったかな。まあ、いいや、エリにはどうせ話すつもりだ。

リビングに戻ると、エリは、少し物思いにふけっている様子だった。聞こえなかったらしい。

「そうそう、フェルメール展、行った?」

わたしのほうから聞いた。

あの時、彼氏と約束したから行くと言っていたっけ。これはエリを励ます気持ちの延長で聞いたのだけれど、そこには同時に、自分の状況を伝えたいという心情も伴っていたようだ。飲むほどに、やっぱり告白したい気持ちが勝ってきたのだろう。

「行ったよ」

「いつごろ?」

「この前レイと会ってからじきだから……10月下旬の土曜日だったと思う」

「もちろん、彼氏とでしょう」

「うん」

「どうだった?」

「よかったよ。ダブル・エンジョイね。彼がいろいろ解説してくれたしね」

「作品は何がよかった?」

「やっぱ、『牛乳を注ぐ女』と、それから『手紙を書く婦人と召使い』がよかった」

あ、おんなじだ、と思った。

「わたしも『召使い』に感動したわ。あと、メツーって、フェルメールそっくりの絵があったでしょう」

「え? レイも行ったの いつ?」

「えーと、エリよりひと月あとくらいかな」

「ひとりで?」

わたしは微笑みながら、ゆっくり首を横に振った。エリが複雑な状況に置かれているのに、自分のいまの仕合せ感をどうしても包み隠すことができなかった。

エリが言った。

「あ、そうか。そういえば、あん時、彼氏ができそうだって話、してたね」

わたしは、そう話したことを忘れていた。その時、話に出た彼氏とは、岩倉さんだ。忘れていたということが、いまは佑介さんで心をいっぱいにしている証拠なのだろう。

その後こちらにもちいさな「てんやわんや」があったことを説明しなくてはならない。浮気者と思われないように。

わたしは、経緯をかいつまんで話した。岩倉さんへの失望、中田さんの転勤、母の跡を継ぐかもしれないこと、「恋愛以上、結婚未満」の状態が一番長続きするのではないかと考えていることも。

聞き終わったエリは、感に堪えたような表情をした。それからにっこり笑って、

「すごいじゃん、レイ。嫉妬しちゃうな。ちょっと目離すとすぐこれなんだから、隅に置けねえ」

「アハハ……。でもまだわかんないよ、人生、何があるか。それに、彼とまだいろんなこと話し合ってないのよ」

「レイのためなら何でもするから」

わたしの口調を意識的にまねて、エリが言った。

「お互い、がんばろう」

改めて乾杯した。ちょうどボトルが空になった。

最近、めったに売ってないサバランを千駄木駅前のケーキ屋さんで見つけたので、二人でそれを食べた。ほのかに広がるブランデーの香りが私たち二人をまた少しだけ近づけてくれたように思った。

表の喧騒はまだ続いていた。
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