第34話 堤 佑介Ⅴの4

文字数 2,927文字


「もう少し何か食べないか。時間はいいんだろ」

「うん。時間は大丈夫。食べ物はもういいや。デザートが欲しい」

「あ、好きなの選んで」

注文を終えてから、亜弥は私に、真剣なまなざしを注いできた。でもその真剣さには、どこかこちらを試すようなものが含まれていた。涙袋の部分にはかすかな笑みさえたたえられている。

「パパ、仕事と関係ない議論にふけるのもいいけどさ」

「うん?」

「誰かいい人見つけたら?」

そう言ってから、今度はからかうような目つきになった。

不意を突かれた。

そうだよな、何しろ寂しいから呼んだというのを見抜かれているんだものな。娘に本来のテーマに引き戻してもらったわけだ。

「うん。見つけるよ。ありがとう。こないだも篠原のおじさん、覚えてるよね」

「篠原のおじさん……ああ、あの猫背の学者の人ね。時々うちに来てたね」

「うん。彼と飲んだら、同じようなこと言われたよ。再婚考えたらどうだってな」

「ネット、よく見る?」

「そりゃ、仕事がらしょっちゅうだよ」

「ネットニュースの広告によく出てるでしょ。『仕事だけじゃなく、恋愛もしようよ』って」

「え? どんな」

「グラマーな女性が自転車うしろにして、こっち見てるやつ」

「ああ、あれか。よく見る、よく見る。あれがどうかしたか」

「じゃ、何の広告か知らないの」

「知らない」

「あれ、Couplesっていう婚活サイトの広告。あれは圧倒的なシェアを誇るサイトなのよ」

「へえ、それで」

「一度クリックしてみたら」

そう言って亜弥は、来た時と同じようにクスクス笑い出した。

こいつ、父親をおちょくってるな、と一瞬思った。しかし、好意で言ってくれていることは疑いようもない。

ティラミスに匙をつけながら、亜弥はまだにやにやしながら私を見ている。私はさっき頼んだハイボールを口に持って行きながら、思わず沈黙した。

心の中では、亜弥の成熟ぶりに少なからず驚くと同時に、やや狼狽もしていた。自分を捨てた不埒な父親に、婚活を勧めるとは。

亜弥がしばらく他人の女のように思えた。酔眼を通してよけいにそう見えるのかもしれない。

だがこれは、と、私は反省した――とても恵まれたことなのだ。こんなことはそうそうあるものではない。もう一度、亜弥の心遣いに黙って感謝した。

それにしても、母子家庭でよくここまで成長したものだ。思春期にだっていろいろあったろうに。ここは、依子にも深く頭を下げるべきところだ。

ともかく、自分の人生と婚活サイトを結び付けることなど、娘に言われなければ考えてもみなかった。

やや余裕を取り戻してから、落ち着いた素振りで答えた。

「気持ちはわかった。しかし俺はああいうのはちょっとNGだな。年も年だし」

「でも見たことないんでしょう。ダメ元ってことあるじゃない」

「うーん。なんでもそうだけど、この年だと、だいたい入り口で見当がつくよ。見ず知らずじゃあな。下手な鉄砲は打ちたくない」

「見ず知らずっていうけど、誰でも初めは見ず知らずよ。出会いのための一つのツールと考えればいいのよ」

それはそうかもしれない。こう理詰めで来られると、うまく抵抗できなかった。

私はできるだけ平静を装うために、静かな声を出すように努力しながら言った。

「いやはや。捨てた娘からそんなことを勧められるとは思ってもみなかった。そんなことまで言われると、申し訳なくて、なんだか胸が痛むところもある」

「そんなこと思わなくていいよ。わたしも無理にとは言ってないわ。ゲーム感覚でちょっとボタン押すだけだからって言ってるだけよ」

子どもの時の強い調子が顔を出し始めた。ふと、少し逆襲してやろうかと思った。

「それより亜弥。お前は試してみたのか。それともそんな必要はないのか」

「フフ、ゲーム感覚で試してみた。おもしろいよ。欲張らなきゃ女はただですむし」

焦るふうもなく答えた。

「それとね、パパ。わたしはまだいいの。ちゃんと年齢と相談してるの。アラサーくらいからマジに考えるよ」

「そりゃそうだな。まだ早い。きょろきょろしない方がいいだろう。でもああいうのはALADDINでモノ買うのと同じで、登録しないとダメなんだろ」

「そうよ」

「亜弥は登録したのか」

「うん」

「じゃ、少しはそういう気があったってことか」

「だから言ってるじゃん。ゲーム感覚なんだって」

ふーむ。これ以上踏み込むのは、たとえ娘といえども控えておこう。成人しているんだし、養育責任を途中から放棄したんだし。彼氏がいようがいまいが、やるんだろうな。私にそれをとがめる資格はない。

自分も娘くらいの年には、けっこういろんなことに手を出した。ちょっと気に入った女がいればすぐに声をかけた。うまく行くこともあれば恥ずかしい失敗もした。まして、ボタン一つで相手を探せる時代なのだ。おそらく男も女も、二股、三股もかけてるのだろう。

しかも篠原や山名さんが言うように、自由恋愛の時代になればなるほど、資本主義みたいに格差が開いてミスマッチが多くなっているのだ。『電子マン』もその底辺事情を、悲哀すら込めて描き切っていたのだった。

「そろそろ行こうか」

「ごちそうさま」

マロリーを出て、亜弥は千葉と東京の境まで行く地下鉄、私は南東京に向かう私鉄と、お互い反対方向なので、路上で別れることにした。

別れ際に、亜弥はまたあのいたずらっぽい笑みを浮かべて、背伸びしながら私の頬にチュッと軽くキス。

「パパ、まだまだモテると思うよ。がんばって」

「亜弥もな」

私は照れながら返すのが精いっぱいだった。

背中を向けながら手を振り、軽快な足取りで地下鉄への階段を降りていく亜弥をしばらく上から見送っていた。ちょっと複雑な気持ちだった。あれはファザコンとは違うな。



亜弥は浦安のマンションに依子と一緒に住んでいる。山本周五郎の『青べか物語』の舞台になったあたりだ。あの小説は名作だったが、それよりも数十年の間の変化に驚かされる。『青べか』が書かれたころは遠浅の湿地帯だったのが、60年代に埋め立てられてから急速に発展し、ディズニーランドができ、高級住宅街に変貌し、そして震災で液状化現象が起きた。

依子は震災後に値が下がったのを見計らって中古を買ったそうだ。亜弥からそれを聞いたときは、なかなかやるな、と思った。

だが油断はできない。

浦安の歴史を見ていると、まるで東京の戦後史の縮小コピーみたいに思えるのだ。

焼け跡から奇跡的に復興し、10年後に高度成長が始まった。瞬く間にこの発展は東京中心に広がり、メガロポリスが形成され、関西圏はそのぶん落ち込み、首都圏一極集中が進むことになった。地方は疲弊してシャッター街が至る所に。

そこに、首都直下地震や南海トラフ地震発生の危険が高まっている。東京全体が大被害という「液状化」に遭った時に、疲弊した地方の助けに期待することはできない。

東京という首都の社会資本の極端な集中は、埋め立て→急速な発展→テーマパークの参入→高級住宅街の出現→地震による液状化という浦安のプロセスにどこか似ている。

液状化はまだ起きていないにしても、これは歪んだ、不気味なものを予感させずにはおかない。この異常に肥大化したメガロポリスでせっせと不動産業を営んでいる自分が、どことなく空しくも感じられた。
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