第45話 半澤玲子Ⅶの3

文字数 1,879文字



帰宅してから、やっぱり今日は憂鬱な日曜日なのだと思った。わたし自身の心の屈託に、エリの一件が重なった。

彼氏は、奥さんと別れる気だと告白したそうだ。それがウソとは思えない、とエリは言った。「ベッドではすごく優しかったし……」。

はたから話だけ聞けば、「そんなのウソに決まってるじゃない」とか、「男ってずるいんだから」とか、「惚れた弱みってやつね。同情しないわよ」などと、無責任に突き放すことはできる。

でもわたしには、世間一般で説かれている、その種の一方的な判断を彼女にかぶせる気にはなれなかった。それは、何というか、一つには物事の成り行きをわたしが詳しく知らないし、もう一つは、彼氏の誠実さの程度をこの目で見たわけではないからだ。



わたしには不倫の経験がないけれど、二十年も前、親しくしていた沙織さんという人からこんな話を聞いたことがある。

彼女は当時、妻子ある男性と不倫していて、その悩みをある女友だちに打ち明けた。すると女友だちは、その男性のことを指して、「まずてめえが身辺整理してから、することしろよって言ってやんな」と言い放ったというのである。

わたしはこれを沙織さんから聞かされた時、ずいぶん単純にものごとを考える人だなあと思った。女友だちが若いせいもあったのだろうけれど、道ならぬ恋に落ち込んで苦しんでいる人に向かって、その言い方はあまりにデリケートさを欠いている。

沙織さんもそんなこと言われてよけい困っただろう。だからわたしにも打ち明けたのかもしれない。わたしも黙って聞くだけで、何も答えてあげられなかったが。

身辺整理が簡単にできれば、この世に不倫なんてなくなる。エリの彼氏の本気度は測ることができないけれど、成り行きでそういうことはありうる。



たしかに、独身であることを条件にしている婚活サイトに、自分の意思で登録するというのは咎められるべきだろう。でも、もし仮にエリの言う通り、真剣に別れる気だったなら、いろいろなかたちで別の人を探そうとしてしまうのではないか。そのいろいろなかたちの中で、婚活サイトだけが例外とは言い切れない。

別れようと思っている、あるいは奥さんとその話をもうしている、とする。でも子どももいるし、奥さんがその気になれないとする。

そんな場合、新しい彼女ができたということを利用、と言ったら語弊があるけど、そのことでひとつの強力なドライブがかかることはたしかだ。それを不純だと決めつけることができるんだろうか。そういう決めつけをする資格のある人がいるだろうか。

おまえは見ず知らずの男にずいぶん同情的なんだな、ただの浮気性の可能性のほうが大きいじゃないか、という声が聞こえた。

もちろん、そうだ。その可能性のほうが大きいだろう。でも、だとすると、なんでわたしは、その男をかばおうとしているのか。

なんで、「早く切っちゃいなさいよ」と言ってあげられないのか。

しばらくこの問いの周りをうろうろした。そして、かろうじて答えのようなものが見つかった気がした。

それは……男をかばっているというより、エリの涙が信じられたからだ。

クールで気丈なあのエリが、思い乱れてわたしの前で泣いている。一瞬ではあったけれど、その初めて見る姿は衝撃的だった。そして衝撃的であればこそ、彼女の涙が信じられたのだ。

しかもエリは、告白されてから関係を深めた。ということは、エリの中にかなりのっぴきならない恋心がもう育っていたということだ。

恋って、白紙の状態から始まるものじゃない。どんな恋だって、不自由な条件に拘束されたところから始まって、そして深まっていく。それは世間のルールをいつも越えようとする。



これから二人がどうなるのか、相手の心、相手の出方を推し量ることができないのだから、わたしにはまったくわからない。おそらくエリ自身にもわからないのだろう。

人の心って、状況次第でいくらでも変わる。不動心なんてない。それはお互いの心が、相手次第で不安定に揺れ動くようにできているからだ。

そしてわたし自身。

岩倉さんだってインチキかもしれないし、本物かもしれない。でも約束したからには、ともかく会ってみるしかない。

というより、ここまで来た以上、本物かどうかを見極めるためにこそ、会わなくてはならない。いや、岩倉さんが本物かどうかではなく、彼とわたしの出会いが本物になるかどうかが問題なのだ。

わたし自身だって、中田さんに対しては、気を持たせながら十分冷たく振舞ったのだ。だから、物事を慎重に見極めながら、しかしあまり重苦しくならないように進むことにしよう。それ以外に方法がない。
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