第88話 半澤玲子ⅩⅢの4

文字数 2,827文字



翌日、つまり昨日、帰宅してからしばらくは、前日のことばかり思い出して、ぼーっとしていた。不安が大きかっただけに、それが解消して、期待以上に充足感があった。だからいつまでも余韻を確かめることになってしまったのだ。

シャワーを浴びた。このわたしのからだを佑介さんがこんなふうに愛撫してくれて、と思うと、また芯のほうから燃えてくるものがあった。


夕方くらいになって、ようやく頭が冷えてきた。そうしたら、これからどう生きていこうかという問題がしきりに気にかかってきた。そこで、佑介さんみたいに、「覚書」をつづることにした。

といっても、彼のような社会のことや政治のことじゃない。もっぱら、自分のこれからのこと。

佑介さんとの付き合いを大切にする、何といってもこれを最優先に考えたい。めったにない仕合せに巡り合えたのだから。

さてそれをどうするか。もちろんわたしひとりで決められることじゃないけれど、でも自分なりにこうしたいという意思をはっきりさせておくことは必要だ。

「結婚」という言葉が何度か浮かんでは消えた。たしかに結婚という形式を踏めば、親族や友だちに正式に認めてもらうことがひとつの安定装置としてはたらくだろう。でも、わたしはもう子どもを産めない身体だし、その形式にこだわる必要があるのだろうかとも思う。

それと、世間の夫婦を見ていると、たいてい二、三年で新鮮さを失ってしまって、日常生活の惰性で仕方なく関係を続けているといった例が多い。

たしかに子どもが生まれれば、いっしょに生活する意味はすごくはっきりするだろう。わたしには子育ての経験はないけれど、それはきっと、二人で作った存在を完成させていくという、逃げることのできない協同事業なんだ。でもそれは、二人の愛が続くということとはまた別の問題だろう。

恋愛と結婚生活は全然違う。恋愛は相手のいいところばかり見ようとする。結婚生活のなかでは、相手のやなところばかりが目立つようになる。

不倫も離婚もすごく多い。

いまわたしは恋をしているし、佑介さんもわたしを愛してくれている。だから、諸行無常はわたしたちにはなしよ、と口では言った。その気持ちにウソはない。

でも、もし結婚したら、じきに飽きられてしまうかもしれないし、わたしのほうで飽きてしまうかもしれない。

だから、この仕合せな感情ができるだけ長く続くためには、結婚という形を取らない方がいいのかもしれない。

かといって、時々会って食事して、セックスして、睦言を交わし合って、お誕生日にはプレゼントを贈り合ってというのも、なんか違う気がする。だって、いつも一緒にいたくなるっていうのもほんとの気持ちだもの。

ああ、頭が混乱してくる。でも、わたし、いい大人なんだから、ちゃんと考えを整理してまとめなくちゃいけないわ。

ああ、でもこんな年になってこんなことになったんで、かえって混乱するのかもね。


もしお互いに経済的余裕があるなら、家を二軒持って、どっちかに行ったり来たりする、というのが理想かもしれない。

と、ここまで考えて、ふと気づいた。それって、いまのわたしたちにできないことじゃないんだ。わたしが実家でお花を教えて、佑介さんはいまのマンションに住み続ける。

それから、職業の問題。

これはわたしの場合、かなりはっきりしてきた気がする。たぶん、いまの会社に勤め続けることはもうないだろう。せいぜいあと1年。退職金もそれなりに出るだろう。これもちゃんと調べてみよう。

いつまでもうじうじしていると、チャンスを失ってしまう。思い切って活け花の修行に賭けてみるべきだろう。退職金をつぎ込んでもかまわない。わたしには、母の跡を継ぐという強力な条件がある。これは一石二鳥だ。

ただ、問題は……二つくらいありそうだ。

一つは、わたしが今から始めて、果たして師範の免状がもらえるかどうかということ。

でもこれはわたし自身の才能と努力にかかっているとしか言えないだろう。もちろん、この世界のこと、家元制度にからむ面倒な世渡りも覚悟しなくてはならない。

もう一つは、あの武蔵野の閑散な地区で、新しい発想の教室を展開できるかどうか。それに、家だって、もう相当古くなっている。改築も必要だろうし、要領のいい宣伝も必要だろう。果たして生徒が十分に集まるかどうか。

でもやってみるしかないだろう。人生の冒険は、もしかしたら中高年から始まる。それに、佑介さんの収入に依存するのは、わたしの本意ではない。稼げる間は自分の生活費くらいは稼がなければ。

これ以上は、いまのところ考えが進まない。

今度佑介さんに会った時、相談してみよう。彼は、この提案に好意的だったし、それに何よりも、佑介さんとの今後の関係のあり方にかかわっている問題だ。彼自身が自分の将来について、わたしとの関係についてどう考えているか、それが第一の問題だ。

というわけで、話はもとに戻ってしまった。これ以上頭を巡らせてもしょうがない。なんにしても、また、早く佑介さんに会いたいと思った。


夜、テーブルに置いたスマホが鳴った。飛びついてスワイプしたら、佑介さんではなく、エリだった。彼女のことをすっかり忘れてしまっていて、悪いことをしたと一瞬思った。

「エリ! ご無沙汰ね。どうしてた? 元気?」

「元気よ。でもいろいろあってね。明日会えないかしら」

「いいよ。ごめんね、全然連絡しないで」

「それはいいの。こっちもてんやわんやしてたから」

「また北千住のあの店にする?」

「なんならわたしの家に来ない? ごちそうする。しゃぶしゃぶでいい?」

「お、いいね。もうそんな季節なんだね」

「そうなんだよね。じゃ、4時ごろでどうかしら。ちょっと早いかな」

「早い方がいいよ。いろいろ話せるから」

「そうだね。いろいろね。じゃ、待ってる」

「何か買ってこうか」

「うーんと、ワインもあるし、材料は揃ってるから特にいらないと思うけど……あ、じゃ、悪いけど、食後のデザート、お願い」

「わかった」

てんやわんやとは、どういうことか。心の準備として、概略でもいいから聞いておけばよかったと思ったが、切れてしまった。

声の調子は、いつものように快活な感じだった。でも彼女は気丈だから、声に弱みを見せることなどめったにない。だから、想像してもわからないのだ。会ってみるしかないと思った。


水盤のダリアが、そろそろ枯れてきた。少し水を足しながら、今度の花材はなんにしようかな、と楽しみながら考えた。知らず知らずのうちに、佑介さんに喜んでもらえるような花を選ぼう、と心に決めていた。

やっぱりバラ、ピンクのバラに、カスミソウ、こないだ母のところで使っていた鳴子ユリあたりかな。それで、活けたら、写メじゃなくて、彼に来てもらう。そして……ルンルン♡

でもエリにはどう話そうか。彼女が不仕合せな目に遭っていたら、わたしはどんな顔して接すればいいだろう。なるべく控えめに、そして、できれば、彼女の話の聞き役に徹することにしよう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み