第63話 堤 佑介Ⅸの1
文字数 5,061文字
2018年11月2日(金)
朝が急に冷えるようになった。薄手のコートを着て、マンションの玄関を出ると、向かいのビルの壁を、角度の鋭くなった光が照らし、路面に長い影を作っていた。私はやや物憂げな気分で、駅に向かった。
半澤玲子さんという女性がいま私の生活圏に入り込みかけている。そのことが心理的な救いだった。
例の中国人・陳秀洪さんは、私が篠原と会った翌日、木曜の夜に契約を成立させ、28日の日曜日にはもう引っ越してきた。午後になってゲイカップルの引っ越し車も到着した。かちあってしまったのだ。
そういえば、こちらも契約までがスピーディだった。細かいチェックを要求しない分だけ早かったのかもしれない。
しばらくして、ゲイカップルのひとり、笹森さんから苦情電話がはいった。陳さんの車が前を塞いでいるので、その奥にある笹森さんの部屋の近くまで車を寄せられないという。
少し動かしてくれれば通れないことはないと思うんで、何とかなりませんか、と電話に出たパート社員が応じると、陳さんのほうが積み下ろしでてんやわんやしているので、しばらく動かせないとのこと。
そんなはずはないと思ってさらに事情を聞くと、何でも表には本人以外に若い男が一人いるが、二人で荷物運びに熱中していて、てんで取り合ってくれない。これを下ろしてしまうまで待ってほしいと言い張るのだという。
引っ越し会社の人ならすぐ心得て動かしてくれるはずだ。さらに聞いてみると、陳さんの会社の車らしく、男も彼の部下のようで、陳さんが家の中に入ってしまうと、言葉が通じない。奥さんは中の整理と子どもの世話で忙しい。
そういえば、彼はリサイクルの輸出を扱っている会社だったな、と思い出した。それなら大きなトラックがあるわけだ。
笹森さんのほうは到着が遅れたので、日が短くなってきたこの頃のこと、早く積み下ろしにかからないと、日が暮れてしまうので焦っている。
つまりは陳さんは、引っ越し代を節約して自分と仲間だけで済ませようというのだろう。いまどき、と思ったが、そこが文化の違いかもしれない。
しかしそんなのんきなことは言っていられないので、たまたま手の空いていた岡田に現地に行ってもらうことにした。彼ならうまく処理してくれるだろう。
岡田はかなり経ってから戻ってきた。どうだったと聞くと、「いやいや、何とか」と答えて経緯を説明した。
「陳さんは夢中になってるので、ご苦労さん、少し休んだ方がいいですよと声掛けして、買ってきたポラリスウェット三本を差し出しました。私もちょっと荷物運びを手伝ったんですよ。それで、少しコミュニケーションの時間が取れました。一緒に運びながら『後ろも引っ越しで、日が暮れるのが早いから、何とか動かしてくれないか』ってていねいに談判したら、ようやく納得して、若い男に命じてくれました。あそこの取り付け道路もあんまり広くないですから、切り返しやバックで相当苦労してました」
「さすがは岡田君。ポラリスウェット買ってくなんて、よく気づいたね。それで笹森さんのほうは」
「ええ。引っ越しトラックの後から二人乗用車で入ってきて、憮然としてにらみつけてましたね。。あとで立ち話したら、こっちに連絡する前に車から降りて直談判したって言ってました。『それでも言うこと聞かないんですよ』ってね。腕なんか筋骨隆々で、もしかしたら一戦交えてたかもしれません。なかなか不気味な光景でした」
岡田が面白そうに話すので、私は思わず笑ってしまったが、でも、幸先が悪い。これからが思いやられるかもしれない。
「それで筋肉オネエのほうは片付きそうなの」」
「ええ、まあ引っ越し屋のほうは夜までかかってもやるでしょう」
「いやあ、そりゃ、岡田君こそご苦労さん。今日は一杯おごるよ」
「ありがとうございます」
それから昨日の木曜日に若夫婦が引っ越してきた。これで残るは、真ん中の老夫婦だけとなった。こちらはのんびりしていて、今月下旬くらいになりそうだという。トラブルが絡まり合わなければいいが。
そして今日は、以前、渋谷本部で話し合った「下町コンセプト」の原案がまとまったので、もう一度会議を開きたいからと、本部に呼び出された。
本部では、ほぼこの前と同じメンバーが集まった。一人だけ、あの時の若い女性が来ていなかった。顔見知りの二人の女性が並んで座っていた。まだ開始時間まで間があったので、彼女たちの隣に腰を下ろして、試しに聞いてみた。
「この前いらした若い女性は今日はお休み?」
「ああ、原さんね。急にやめちゃったんですよ」
「え? そうなんですか」
これ以上詳しく聞くわけにいかない。関心を抱いているみたいに、ヘンに疑われるかもしれないからだ。すると二人が小声で話し合うのが聞こえた。
「彼女、ちょっと根性ないわよね」
「あの程度でパワハラなんてね。若い人はこれだから困る」
「わたしたちの時なんか、あんなのざらだったわよ」
「そこが困るのよね。だって私たちはしごかれるのが当たり前だったでしょう。そいでこっちが若い人を指導しなくちゃならない立場になったら、同じことを言ったりしたりすると、パワハラだって騒がれるんだものね」
「ほんと、ほんと。どうやって対応していいか、戸惑っちゃうわね」
なるほど、そういうことがあるのか、と、私は聞いていて、とても参考になった。
この人たちだって、まだ30代前半くらいだろう。こっちから見れば見分けがつかないくらい若く見える。いつか亜弥が言っていた、25と18の違いのことを思い出した。
所長としての業務に追われて、なかなか若い人たちの心理的な扱い方にまで気が回らない。ウチで言えば、八木沢と川越、谷内と本田の関係みたいなものか。彼らの顔を思い浮かべながら、そういうことって彼らの間にもあるんだろうなあと思った。
それはそうだ。上から目線で、ウチは和気藹藹でやっておりますなんて自惚れてたら、思わぬ内部トラブルに出くわすかもしれない。余裕があったら、これから少し気をつけてみようと自戒の念を新たにした。
それにしてもパワハラ――もちろん、あの某大学アメフト部事件のように、なかには許しがたいパワハラが、この企業の世界にはごろごろあるに違いない。あんなのは氷山の一角で、たまたま体育会系だったのでその体質が露呈したけれど、じつは普通の企業でも陰湿なかたちで日々行われているのだろう。
それはそれで告発されてしかるべきだ。しかしいま、この女性たちが話しているような問題は、どうしたらいいのだろう。わずか十年足らずの年齢差で、立場が逆転し、上司のほうが、新人にどう対応していいかわからなくなっているという問題。
仕事を覚えてもらうためには、ある程度ビシビシ鍛えなくてはならない。それでなければ戦力にならない。時にはぼんやり者に対して荒っぽい叱責も必要なことがある。でも、そうしようと思うと、「パワハラ」という言葉があるために、その言葉に怯えなくてはならない。
男性の「セクハラ」レッテル恐怖症と同じように、女性の間にも「パワハラ」レッテル恐怖症があるのか。
これもまた、繊細な個人主義化がいっそう進んだ一つの表れだろう。たぶんその背景には、不況が関係しているだろうし、また、コミュニケーション能力が過剰なほど要求される第三次産業化も関係しているに違いない。だとすると、なかなか解決は難しいな。
と、ここまで考えた時、会議の開始時刻になった。
社長以下、役員も入室した。このプロジェクトを重視している証拠だ。デフレ不況の折から、相当、エネルギーを注ぐ気なのかもしれない。
「下町コンセプト」の概要と、開発重点地域について書かれた資料が配られた。ウチの営業所は、本部以外に、中野、浅草、横浜、それに、けやきが丘の四か所。それぞれの営業所に比較的近い地域が開発候補地として選ばれていた。
本部は、渋谷区内と新宿区内の二か所が候補地、中野は中野区内、浅草は台東区内、横浜は中区と西区内、そしてけやきが丘は多摩川を越して都内の大田区内。それぞれ町レベルまで特定されていた。ウチが一番遠くてワリを食ってる感じだな。
もっともこれはとりあえず選定されたモデル地区で、プロジェクトがうまく進めば、これから先も他の地区の開発に乗り出していくということだった。
これらの地区を選定した基準とその評価が一覧表にしてあった。年齢構成、家族構成とくに単身者の割合、空室率(戸建て、賃貸マンション、アパート別)、図書館などの公共機関、医療機関、寺社、下町商店街の有無、町全体の雰囲気、自治会組織。
商店街や街並みについては、何枚もの写真が添えられている。
いくつかの地域を調べ、比較検討した結果、これらの地区を選定した、と事業開発部の主任が説明した。
今回分譲マンションを対象に入れなかったのは、管理会社や管理組合が統率していて、たとえ空室があったとしても、そこを新たな開発の対象にすることには困難が伴うからだという。
大田区といえば私の住んでいるところだ。ただし、指定されている町は蒲田で、だいぶ海寄りのほうだった。あのあたりは少しごみごみした地域が多い。しかもけやきが丘のオフィスからは、さらに遠くなる。二回乗り換えが必要だ。
基本的な構想は、これらの地区にある戸建て空き家を買い取り、リフォームした上で売りに出すか賃貸する。また、空室率の高いアパートも場合によっては買い取り、リフォームして賃貸する。土地の場合は、借りるか買い取ったうえでアパートかシェアハウスを建設し、管理運営する。オーナーに売る気がない場合は、管理業務を引き受けたり、オーナーに積極的に働きかけて、入室率を高める活動をする。図書館や医療機関へのパイプ作りなども手掛ける。
あとは、適切な物件の探索と画定の仕事が残っていた。
疑問に思ったことが二つあった。該当地域の平均所得水準がどれくらいかという点と、予算をどれくらい見込んでいるかという点である。
初めの質問は私がしたが、これは指定地区単位では、残念ながらまだ正確にはつかんでいないとのことだった。
二番目の質問は、別の営業所の所長がした。最も気にかかる点である。
事業開発部長が、プロジェクトの進行具合にもよるが、初めから十数億は見込んでいると答えた。どこかから、ほう、とため息が漏れた。
別の質問があった。「下町コンセプト」を本当に中身のあるものとするには、単にそれぞれの地区で、単発の開発を進めるだけではなく、行政区の都市計画課との間に何らかのパイプを作る必要があるのではないか。
これは、ウチ程度の事業規模の会社では、なかなか耳の痛い質問である。賄賂を使うわけにはいかないし、特にコネがあるとも思えない。
事業開発部長は、それはたしかに難しい課題だが、すでに同時並行的に考えてはいて、近々、それぞれの地区が属する行政区の都市計画課に、本部から別動隊を送り込む予定だと答えた。
「いいご質問ですね。行政機関との間に、何らかの有機的な連携ができると、こちらの事業も発展させやすくなります。しかしとりあえず、指定地区の状況を我々自身が把握する必要があります。今回の試みは、その意味もあるんです」
最後に副社長が立って、各営業所へは、今月半ばをめどに、本部から頻繁に特別スタッフを派遣して、詳しい調査、実地交渉にあたらせるので、その節はよろしく協力をお願いすると発言した。
これはなかなかたいへんである。業務が増えるうえに、会議に時間を割かれることになろう。私自身も含めて、うちのスタッフを現地に派遣する必要も出てくるだろう。
解散した後、人事課に赴いて、けやきが丘営業所のスタッフの増員を願い出た。これは今までも繰り返し行ってきたのだが、今回は、さらにその必要性が増したのである。
想像はできたが、人事課はあまりいい顔をしなかった。「わかりました。追ってご連絡いたします」と、そっけない返事。おそらくうまく行っても、派遣社員一人がいいところだろう。役割配分から考え直さなくてはならない。
朝の物憂げな気分は、午後になって、ちらほら舞い落ちて来る道端の落葉のように、少しずつ増してきたような気がする。「下町コンセプト」――机上で空想している間は、いいアイデアだと思っていたが、いざ自分の仕事として現実化してくると、重荷になってのしかかってくる。
まあしかし、そんなものだろう。いままでいつもそうだったように。案ずるより産むは易しと決め込んで、しばしはそんな負担感は忘れることにしよう。