第112話 半澤玲子ⅩⅤの3
文字数 2,581文字
まずは赤ワインで乾杯した。
「お疲れさま。今年の秋はれいちゃんに会えて最高でした」
「お疲れさま。わたしもゆうくんとこんなふうになれて、最高でした」
佑介さんも、キッチンに立って、スモークサーモンのサラダを作った。
ポトフをふたりのお皿にたっぷりと。ソーセージが上等品だった。ゆうくんは、うまい、うまいと言って食べてくれた。たくさん作ったので、明日の分もまだある。
「幻のポトフが現実になったね」
「ほんとね」
「もうすぐ、お母さんにお会いするんだね。緊張するな」
「あら、全然大丈夫よ。母はすごく喜んでるから。久しぶりに楽しいお正月になりそうだって」
「そう。元日でいいの?……妹さんご一家、お正月に来るんでしょう?」
わたしは、例のいきさつを話した。少し意地悪が過ぎる調子だったかもしれない。佑介さんはじっと聞いていて、「そういう相性の問題って、しょうがないよね」と言った。
「そういえば、ゆうくんのお兄さんのこと、これまであまり聞いたことなかったんだけど……」
「兄貴? ああ、何とかやってるよ。あれはどうでもいいよ」
「仲、悪いの?」
「いや、そんなことない。ほんの時々、会って飲むけど、仲いいよ。でももう1年以上会ってないかな」
「お仕事、何してるんだっけ」
「ふつうの会社員だよ。機械メーカー関係。60になったのかな。いま定年が延びてるでしょう。だからあと5年は勤めるんじゃないの。退職したら田舎に引っ込んで百姓やりたいとか言ってるけど、どうだかね。あの人はものぐさだから」
「どこに住んでらっしゃるの。ご家族は?」
「横浜の港南区って南のほう。ご家族はですね。奥さんと息子ひとり。晩婚だったんで、まだ中学生じゃないかな」
港南区って言えば、詩織が滑り止めに受けるって言ってた江南女学院があるところだ。
「お百姓さんって、土地かなんか持ってるの」
「うん。なんか、何年か前に長野県に買ったとか言ってた」
「いずれお会いしなきゃね」
「そうね。紹介します。そのうちね」
そっけない言い方だ、と思った。ほんとにどうでもいいと思ってるみたい。男の兄弟ってそういう淡々としたものなのかもしれない。何となく羨ましく感じた。
佑介さんは立ち上がって、出羽菊を取り出した。
「れいちゃん、どうする。ワインがいい? それともこっちに切り替える?」
「そうね。わたしもお付き合いするわ」
彼は籠に入ったたくさんのぐい飲みを持ってきた。
「どうぞ、お好みのを」
「わあ、いろいろあるのね。じゃあっと、これ」
わたしは九谷を選んだ。ゆうちゃんは、ちょっと大きな志野。一升瓶をそおっと持ち上げてわたしのに注いでから自分のになみなみと。
「お母さんのところ、生徒さん、何人くらいいるの」
「ああ、ちゃんと確かめたことないけど、12、3人じゃないかしら」
「12、3人ね。もしれいちゃんが先生になったら、30人くらいにしなくちゃね」
「エー、そんなにできるかしら」
「れいちゃんならできるよ。僕も援けるから」
「でもゆうくんはお仕事で忙しいでしょう?」
「うん、当分はね。でも、そのうち兄貴じゃないけど、身の振り方考え直そうかなとも思ってるんだ」
「……」
「このまま不動産屋続けていても、なんか空しい気がしてね。じゃあ、どうするかっていってもいまのところさしたる計画があるわけじゃないんだけど」
声がちょっと沈んでいた。それきり彼は下を向いて黙ってしまった。
何かあったのと聞こうとしたけれど、そのなんとなく重苦しい雰囲気が、かえってわたしを思いとどまらせた。それから彼はふっきったように、顔を上げた。
「ごめんごめん、心配しないで。こないだ56になったでしょう。60代が見えてきたよね。ほら、やっぱり20年以上同じ仕事続けてるとさ、ここらでもう一回、人生やり直そうかな、なんて、らちもないこと考えちゃうんだよ。それだけ」
わたしとの出会い、そしてわたし自身がいま人生を変えようとしていること、それが知らず知らずのうちに影響を与えているのかもしれない。
たしかにこの人、不動産業で一生を終えるには、多くの豊かなもの、有り余るものを持ちすぎてる。できることならちょっと勇気を持たせてあげよう。
「わかるような気がするわ。ゆうくん、いろんなことできる人だもんね。それに、いま、昔の56と全然違うでしょう。まだまだ新しいことに挑戦できると思う」
「ありがとう。それはわかんないけど、こないだも冗談半分で言ったよね。……これはいまのところ単なる空想だけど……たとえば、れいちゃんが華道の道を突き進むんだったら、営業の経験生かして、それにからむ形で、協同事業みたいなこと構想してもいいかなって」
わたしも、それにはにわかに答えられなかった。そういうことでなくても、もっと何か……。
佑介さんの提案には直接答えずに、わたしは言った。
「ほんとの意味で第二の人生ね。いますぐ決めなくても、ゆっくり考えればいいわよ」
「そうだね。うん。ありがとう。でも、いずれにしても、あと三、四年は続けるよ。その間に考えればいい。拙速は禁物だよね」
彼の表情がいくぶん明るくなった。
どうぞお酒を召しませ、とばかりに、今度はわたしが重い一升瓶を抱えて彼のぐい飲みに注いであげた。彼はいきおいよくそれを飲み干した。
こんなふうに、一気飲みするゆうちゃんを初めて見た。やっぱり何かあったんじゃないだろうかと、じつはちょっと心配。
わたしは気分を変えるために、さくらちゃんの話をした。
話題としては明るい話題ではないけれど、やや他人事のような調子をわざと作って、わたしたちの幸運を強調するつもりだった。心の中では、彼女のことをすごく気遣っていたんだけれど。
さくらちゃんとは、あれ以来、突っ込んだ話をしていなかった。お互いに何となく距離ができた感じだった。
でもきのうの残業の時、彼女のほうが先に退社するので、別れる時に親密なあいさつを交わした。ついでに、「来年は絶対幸運が巡ってくるわよ」と励ましてあげた。さくらちゃん、がんばって。
「ほら、さくらちゃんだけじゃなくて、エリみたいに隘路に嵌り込んじゃった例もあるでしょう。だからわたしたちってすごくラッキーだと思うのね」
「その通りだね。こないだ篠原と会ったんだけど、打率1割くらいじゃないかなんて言ってたな」
お酒はほどほどにして、ポトフをもう一度お皿に盛り、ご飯を食べた。