第77話 半澤玲子Ⅻの1
文字数 1,342文字
2018年11月25日(日)
フェルメール展に行った翌日、堤さんからメールが入り、24日の土曜日に会えないかと打診してきた。つまり昨日だ。今度はわたしの休日に合わせてくれたのだと思う。
わたしは、すぐOKの返事をした。うれしかった。
場所は神楽坂の一番奥のほう、「おん」という和食の店だった。わたしの家からは、地下鉄一本。これも配慮してくれたのかしら。
神楽坂といえば、中田さんを振ってしまった場所だ。かすかにあの時のことを連想して複雑な思いがよぎったが、でも、そんなことにこだわる必要はない。
そして昨日、少し早めに家を出た。
寒い曇り空の一日だった。グレーの浅い衿のタートルネックセーターに、黒地に白いストライプの入ったロングのワイドパンツ、明るいブルーのチェスターコートといういでたち。
早めに出たのには理由があった。おかしな話だが、こだわる必要はないと言っておきながら、中田さんのことが心のどこかでまだ気になっていたのだ。それで、神楽坂を歩いてみようというつもりになった。できればあの店にも。
それで、牛込神楽坂の駅から降りて約束のお店「おん」の場所を確かめてから、神楽坂に出て、飯田橋のほうにゆっくり降りて行った。にぎやかな人通りを縫って、真ん中より少し下くらいまで来たとき、右に曲がる小路があった。
見覚えがあったので、そこを曲がったら、すぐあの古い格子戸の店を見つけた。ところが「十月末日をもって閉店いたしました」と貼り紙。わたしは一瞬たじろいだ。
中田さんと会ったのが、たしか十月の初めころ。ということは、あれからひと月もしないうちに店を閉めてしまったのだ。
もちろん、自分に関係があるわけはないけれど、でも、なんだかこのお店にも中田さんにも悪いことをしてしまったような感じがした。
飲食店に限らず、しばらく行かなかった店に行ってみると、閉店していたという経験に、ここ数年よく出会う。この前、便利だった自宅近くのホームセンターが閉店したし。
地方はもっとひどいらしい。
長引くデフレ不況のせいだろう。政府は景気は回復基調とか、いざなぎ越えとか言ってるけど、それはウソだ。この前、堤さんに消費増税のインチキなからくりを聞かされていたので、なんだか、いまの政府のやっている緊縮財政路線に無性に腹が立ってきた。
そういえば、ウチの会社でも、売り上げの減少傾向がここのところ見られるし、製品価格の値下げをやむなくされて、下請けにその差額分を押し付けているケースも多くなっている。
もしかしたら、中田課長の転勤と、辣腕の安岡新課長の赴任も、本社の業績不振と関係あるのかもしれない。だから、安岡さんは、来てから間もなく、ああいう合理化システムの導入を企画したのではないか。
経理部門を合理化しても、あまり業績改善には役立たないと思うけれど、でも残業時間を減らせれば、それだけ人件費節約にはなるわけだ。しかしこういうのって、全体から見れば悪循環じゃないのかしら。
そう考えると、中田さんのことがよけい可哀相になってきた。あんなに冷たく突っぱねるんじゃなかった……。とは言ってもなあ、こればっかりは。
いまごろ、京都で中田さんは頑張っているだろうか。いい人見つけてくださいね、と今度は本気で祈らずにはいられなかった。