第51話 半澤玲子Ⅷの3

文字数 3,904文字



「ここには何回くらい来てるんですか」

「そうね。五、六回かな」

「お家でも自炊なさるんですか」

「ええ。外食はみんなで飲む時とか、どっかに出かけた時だけかな。」

「偉いですね。おひとりなのに」

これはちょっとカマをかける意味があった。でも動揺したふうは見せない。

「いや、ひとりだからこそ、やりたいようにできるんですよ。山歩きするでしょ。山で炊事する時も、固形燃料をもってって、火おこしから始めるんです」

ボロは出さない。ごく自然な調子で答えたので、ほんとにひとりなんだろう。

「へえ、すごいですね。メッセージ交換始めたころ、先生だからインドア系かって思ってたんですが、アウトドア系でもあるんですね」

「はは、原始人ですよ。いや、僕はね、毎日10時には寝て、4時には起きるんですよ」

「え? どうしてそんなに早起きなんですか」

「早朝マラソンと、授業準備。いつの間にか習性になっちゃったんだな。動物みたいですよ」

「真冬でも?」

「真冬でも」

違和感と言うほどではないが、こういう自分のポリシーをガッチリ守っている人には、何となくなじめないものを感じた。

さっき食事に誘った時だって、どこに行くかもう決めてあったらしく、わたしの希望を尋ねもしないで、さっさと店まで連れてきた。ふつう、「何が食べたいですか」くらい聞くんじゃないかしら。

ぐんぐん引っ張って行ってくれるという意味でなら、頼もしいと言えないこともない。でもちょっと強引な気がする。もう少しこっちの意向を尊重してほしい。



こんなに自律的でマイペースで生きてるなら、なんで婚活なんかわざわざするんだろうという疑問ももたげてきた。

やっぱりセックスが目的? もしそれだけならもっと若い恋人を作ればいい。ヘンな話だけど、高収入なんだから、こっそり風俗に通ったっていい。

それとも60近くなって、さすがに伴侶が欲しくなったのかしら。

やっぱりそうなんだろうなあ。

しかしそれなら、もう少し、初対面の女性にいろいろ関心を持ってくれてもいいはずだが、ほとんど自分のことばかり話して、わたしのことを聞こうとしない。

メール交換していた時は、けっこうスムーズにコミュニケーションができていた。

試しに『広い世界の端っこで』の話を出してみたら、彼も見たといっていた。そして爆心地近くで被爆し『夏の花』という作品を発表してから、後に自殺した原民喜という作家のことを詳しく教えてくれた。連想で、大学時代に自殺した自分の友人のことも。

いい文章だった。

毎日、計算ばかりしていて味気ない、岩倉さんのように自由な生き方をしている人がちょっと羨ましいと伝えたら、平凡な日常を生きるってけっこうたいへんなものですよね、と的確な同情の言葉が返ってきた。

でも会ってみると、文章から感じられたあの紳士的で文学的で優しいイメージとはずいぶん違った。

わたしのことをどう思っているのか、はっきり聞くべきだと思った。相手のことを、ほんとに気遣っているようには見えない。食器をカウンターに運びながら頭の中で急いで作戦を練った。戻ってきた時、思い切って聞いた。

「今日初めてお会いして、わたしのこと、どう思いました?」

「え? あ、ああ。素敵だと思ったよ。年齢よりずっと若いし。またお会いしたい」

「ほんとかしら?」

やや媚びるような目線を送りながら、作った声で迫ってみた。自分でもいやらしいとちょっと思ったけれど。

岩倉さんは、ふさふさ頭をごしごしと掻いた。明るすぎる電灯の下で、フケが光って散った。

「ほんとだって。メールにも書いたでしょう。こうして会えたのも何かの縁ですよ」

「じゃ、今度、わたしがお誘いしたらつきあってくださる?」

「もちろん」

「仕事が忙しくて、残業もありますし、あまり予定が組めないと思いますけど、それでもいいですか」

「いいよ。仕事何だっけ」



唖然とした。ボケてるのじゃないかと思った。やはりわたしの勘は当たっていたのだ。

「レオン本社で、経理やってます。メールで書いたの、お忘れ?」

「ああ、そうでした。ごめん、ごめん。そうね。計算ばかりで味気ないって書いてたね。……うん。」

それ以上、わたしのことを何も聞いてこない。そのぎこちない間が空くのを潮時と見て、わたしは時計に目を走らせながら、いきなり言った。

「すみません。明日もちょっと、家で処理しなくちゃならない仕事があるんで、今日はこれで失礼します」

「え? もう帰っちゃうの? まだ8時前だよ」

「岩倉さんも早く寝なくちゃならないんでしょう?」

「ま、そりゃそうだけど……。じゃ、わかった。また今度」

あっさり承諾した。ほんとに未練があるんだったら、もう少し引き留めろよ。今日はあなたに会えた特別の日だからとか何とか言ってさ。

お互いのマイレジを持って、会計カウンターに向かった。予想した通り、おごってはくれなかった。合計金額を割り勘にしてもくれなかった。わたしの伝票のほうが、二品プラス、チャージ代がついて、はるかに高かったにもかかわらず。



職場での続けての失敗の理由が、土曜日の岩倉さんとの出会いにあることは明らかだった。

わたしはいい年をして、インテリであること、高収入であること、そして文章がうまいこと、登山好きのようなロマンチシストであること、これらのことに幻惑されてしまったのだ。

自分の弱さを思い知らされた。苦い後味が残った。

日曜日一日、前日の出会いが何だったのかをくよくよと考え続けた。



わたしから誘うと言ったけれど、もちろんその気はなかった。向こうから誘われると断りにくい。誘うと言っておいて、だんまりを決め込むつもりだ。もししつこく連絡してくるようだったら、折を見て、付き合いを断つ旨を伝える。

それにしても、あの口臭には参った。ネットにいかがわしい治療CMがあれほど出ているわけだ。身近で誰も指摘する人がいないのだろう。それはプロフィールがインチキではないことの証拠かもしれないと思って、何とか我慢した。

口臭なんて小さなことで、せっかくできたつながりを壊してもよいのか、と一度は考えた。またわたしの職場がトイレタリー系だから、よけい気になるのか、とも。

いやいや、しかしこれは小さなことではない。会うたびにあのにおいを嗅がなくてはならないのだとしたら、どうしても我慢できない。

それを面と向かって言うわけにもいかない。言ったことで相手が傷つくというより、気分を害するだけで、意に介さないんじゃないかしら。そうなると、お互いの気分がいつもギクシャクするだろう。それはなんだかとても嫌だ。



以前、わたしと同年輩のある独身女性の家に行ったら、犬を飼っていた。犬は嫌いじゃないけど、コッカースパニエル系なので、臭いが部屋に相当強くこもっている。本人は気づいていないようだ。そんなに親しい仲じゃなかったので、その時も注意しそびれてしまった。

その話をよくもののわかる年長の女性にしてみたところ、「今度行ったときに、消臭剤を持っていって、『はいこれ、ワンちゃんにプレゼント』とさりげなく渡せばいいんじゃない」とアドバイスしてくれた。なるほどと思ったが、それきりその家に行くことはなかった。

ウチでも口臭を抑える商品はいくつか出している。マウスピュアという名の系列で、歯磨きから口内噴霧液、錠剤、サプリなど。

でも、相手は犬じゃなくて、人だ。「はいこれ、あなたにプレゼント」というわけにはいかないだろう。消してもらいたいなら、やはりはっきり言うのでなければ。



それに、関係を続けたくないという気持ちは、口臭だけが理由ではない。

あの人は、自分の生き方というものを強く持ちすぎている。そうして、それに対する疑いを抱いていない。人からその生き方を批判されたり、もう少し妥協が必要だと忠告されたりしても、けっしてそれを変えようとはしないはずだ。

ロートレックで支払いを別々にしたのも、「心豊か」で自分のマイ伝票のぶんしか支払わなかったのも、ただのケチというのとは違う。

相当な年収があって、その年収を何につぎ込むかについて、はっきりした目的があるので、他のこと、わたしたちの日常生活を作っている些細なことに配慮する気がないのだ。本当は、そうした些細なことへの配慮が、人と人との関係を円滑にしていくことにとってすごく大事なのに。

だからわたしも、あの人の視野の中では、一個の人格を具えた人間として見られているというよりは、「そろそろ伴侶が必要になってきた」という自分本位の気持ちの一対象としか見られていないのだと思う。それは今度の登山では新しいピッケルが必要だというのと似たようなものだ。

そう考えると、口臭が強いという体の特徴と、あくが強いという性格の特徴とが重なって感じられた。それは同じ一つのことなんだ、たぶん。



わたしが彼とつきあい続けたとすると、その付き合いのスタイルはどんなふうになるだろう。彼は情熱をもって、わたしを強引に自分の世界に引き込もうとするだろうか。

そうじゃないと思う。

彼はきっと、わたしのことを、自分の周りにある、あってもなくてもいいような、でもあった方が便利な道具みたいに扱うだろう。

それにしても、「文は人なり」なんて言うけれど、この言葉が当てはまらない例を、岩倉さんとのたった一回の出会いで、わたしは手ひどく味わったわけだった。

溜った澱のようなものを、日曜一日ぼんやり過ごすことで、何とか洗い流せると思っていた。ぼんやりと言っても、きちんと反省して、仕切り直しにまで持っていくことで。

けれど無意識のレベルまでは、どうも清算できていなかったようだ。それがおとといときのうの失敗になって現れた。
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