第56話 堤 佑介Ⅷの4
文字数 3,852文字
私も出羽菊のお代わりを頼むことにした。何度も篠原の言ったことを反芻した。
「……なあるほど。マクロ経済のからくりが少し読めてきたぞ」
アキちゃんは、慌てて一升瓶とグラスを取りに行った。
私自身どこまで理解したかおぼつかなかったが、マスターもアキちゃんも、とてもすんなり理解したとは思えない。そりゃあそうだろう。彼らはそれでもいっとき、篠原先生のよき生徒だった。
戻ってきたアキちゃんはグラスに酒を注ぎながら、言った。
「私たち、騙されてたんですね。でもどうすればいいんでしょう」
私はブランデーグラスに注がれた出羽菊を、静かにゆすりながら、篠原の言葉を反芻した。そして言った。
「どうやらそのようだね。どうすればいいか。それはゆっくり考えよう。」
アキちゃんは「そうですね」と、納得したようなしないような顔をして、その場を離れた。
私には、まだ聞きたいことがあった。
わかってみると、そんなに難しいこととは思えなかったが、それにしても、政治家やマスコミは、みんな騙されてることになるのか。
「するとだな、財務省はどうしてそんなデマを振りまいて国民を総なめに騙してきたんだ。官僚にそんな悪意があると思えないんだが」
「それはいったん決めたことは、口が腐っても間違ってましたとは言えない。それが官僚の意地ってやつだ。若い連中も上に逆らったら出世の道が閉ざされちまう。だから自分たちだけのドグマに忠実になってるからとしか言えないな。あれは『緊縮真理教』ともいうべき一種の狂信団体だよ。各省や政治家へのその影響力は猛烈だ。それも邪教中の邪教だ。彼らは歳入と歳出の数字を机上で均衡させることしか考えてなくて、国民生活のことなんかこれっぽっちも考えてない。そうやって膨大な国民をこれまで不幸に陥れてきたんだ。だいたい税収だけで歳出を賄おうって発想が根本的に間違ってる」
篠原は、千代鶴を荒っぽくあおった。
私は目の前に出てきた、特大オムレツにゆっくり箸をつけながら、慎重に聞きただした。
「篠原の考えに従うと、デフレ脱却のためには、政府が税収に依存しないで、もっともっと国債を発行して、積極的に財政拡大をすべきだ、ということになるかな」
篠原は間髪を入れずに答えた。
「デフレの時には当然だよ。特に未整備のままになってる地方のインフラ、全国の劣化したインフラにすぐにでも投資しなくちゃいけない。しかもこれは建設国債で賄って固定資産として残るんだから、本来、例の『借金』に含めるべきじゃないんだ。何しろ日本は災害大国なんだからな。インフラが地方に整備されれば、地方経済だって活気づくし、こんなに東京一極集中しなくて済むはずだ。ほかにも、科学技術の遅れとか、教育費や国防費の不足とか、年金給付年齢のかさ上げとか、みんなあの『緊縮真理教』から出てる。これさえなけりゃ日本はとっくにデフレ脱却して、いまごろGDP1000兆円ぐらい軽く超えてるよ。」
若いカップルが入ってきた。アキちゃんが新しいお客さんのほうに走り、マスターは「いらっしゃい!」と威勢の良い声。しかし篠原は見向きもしない。アベックは、私たちのカウンターのちょうどうしろのテーブルについた。
私は彼らのことを少し気にしながら、また声を落として聞いた。
「それって、アガノミクスでやるはずじゃなかったっけ」
「やるはずだった。国土強靭化とかいってな。でも阿川政権は、財務省に跪いちゃって、何にもできなかったんだ。金融緩和だけやって、財政出動しないから、金がブタ積みで、企業も怖いから投資に手が出せない。野党も、アガノミクスは失敗だったなんて与党攻撃してきたけど、そもそもアガノミクスは、その一番大事なところが行われてないんだよ」
「おい、声を少し小さく。ところで、公共投資のために国債は、どんな情勢でも、いくら発行してもかまわないのか」
「いくらでもってことはない。インフレが過熱しない程度まではな。それこそ、金利を睨みながら日銀と政府と二人三脚でコントロールしてきゃいいわけだ。これは通貨発行でも同じ。国債も通貨も、必要に応じて発行すればいい。大々的に公共事業もできるし、その経済効果で国内の需要も高まるだろう。そうすればさ、GDPが増えるから、税収だって増えるんだよ。財務省が必死で財政収支の帳尻を合わせようとしていることなんか、バカみたいなもんで、経済が上向けば、ちゃんと収支も均衡するのさ。均衡させる必要なんかもともとないんだけどな。そうそう、公共事業っていえばさ、ピークが20年前だったんだけど、いまその何%くらいか知ってる?」
「7割くらいか」
「5割ちょっとだよ。こんなんで、大災害が続いたら、日本はいっぺんで終わりさ。今年もあっちこっちで災害が頻発したけど、あのクラスのが首都圏を襲ったら、地方には助けようにも助ける力がない。」
「それでおまけに消費増税か」
「そう。阿川政権はとんでもないことやってるんだよ。消費増税は国民生活を苦しめるだけじゃない。グローバル企業の法人税を減税する肩代わりにも使われてるんだ。これやったら日本経済はもうダメだ」
「要するにグローバルなほうに資本が全部向いちゃってるわけだな」
「そう。これはやばいよ。日本のGDPは消費が6割だから、資本を外に逃がして内需が落ち込んでいくと致命的だ」
「もう一つ聞きたいんだけど、もし国家予算が国債や財務省の短期予算で賄えるなら、わざわざ国民から税を取り立てる必要ってなくなるんじゃないか」
「いわゆる無税国家論な。理念としては可能だけど、現実にそれをやると、インフレの過熱を抑えるのが難しくなる。それと富裕層からたくさん取って社会保障などで貧困層に回すという、いわゆる所得の再分配機能が税にはあるからな。だから本来、消費税みたいな、貧乏人に負担がかかる税は、デフレ期には絶対やっちゃいけないんだ」
「なるほど。インフレ抑制のためと、格差是正のために税はあるのか」
「そう。財務省はこれまで、デフレの時にインフレ対策をやるという大バカなことをやってきた。だから、インフレが過熱して来たら、これまで取ってきた得意の緊縮路線をやればいいのさ。」
後ろのアベックが海外旅行を話題にしていた。
「バリ、すてき! 行ってみたいわ」
「マレーシアもけっこういいらしいね」
「ね、ふたりの休暇調整して、行こ、行こ」
若い人はいいな、と思った。それで思いついた。
「政府はIRとか、観光客の増加で稼ぐつもりらしいけど、あれはどうなのかね」
すかさず、篠原が答える。
「国内生産や国内労働者を大切にしないで、インバウンドで埋め合わせようなんて考えたらおしまいだよ。それこそギリシャみたいになっちゃう」
この前、岡田が言っていたことと一致する。
「だいち、インバウンドなんて見かけは目立つけど、何千万人来ようが、落としてく金なんて、GDPんなかじゃほんの微々たるもんだ。為替の影響も受けるし、輸入がちょっと増えただけで目減りしちゃう。それに、この前の話じゃないけど、これほとんどが中国人や韓国人で、残りは台湾人と香港人。なかにはビジネス目的もたくさんいるんだ。しかも観光地が荒らされて問題になってる。京都や金沢なんかたいへんみたいじゃないか」
「そうだな。さっきの俺の話とも関係あるな」
「関係ある、関係ある。大方の日本人はそういうことを見ないようにしてる。政治家もマスコミもな」
「こういうこと考えてるのって、ごく少数派じゃないか」
「そうさ。だから困るのさ」
篠原がトイレに立った。
後ろのカップルは、マレーシア、シンガポール、ジャカルタ、バリと周遊する計画をまとめようとしていた。楽しさが盛り上がっていた。
日本が内憂外患、さまざまな危機にさらされているのに、私たちはみな、こんなふうにいつもの私生活の安定がそのまま続くと、どこかで信じている。後ろのカップルだけが浮かれているわけじゃない。
いくら南海トラフ地震や首都直下地震の可能性が高まっていると知識情報で吹き込まれても、建設中のビルの作業をやめるわけにはいかない。明日のことはわからないからといって、明日がこのまま平和に訪れるという期待と確信を前提にしなくては、計画された旅行も、毎日の仕事も、何も進まないのだ。
もちろん能天気な人たちが大半かもしれないが、現に自分が戦乱の真っただ中にさらされているのでもなければ、危機意識が切実なリアリティを持つことなんかないんじゃないか。
今までも言ってきたけれど、私たちはいつもこの二重になった意識のもとで暮らしている。大きな「観念」と小さな「実存」とのギャップを常に抱え込みながら。
これは当たり前のことなのだが、私はいまさらのように、この二重意識の奇妙さに驚き、そして、生に付きまとうこの矛盾を切なく思った。「観念」も大事だが、毎日の「実存」から逃れるわけにもいかない。
スマホに手が伸びた。誰もが一時の不安からそうするように。そして篠原のご説を聞かされた後でも、いや、後だから余計だろうか、自分の「実存」に立ち戻る気持ちになった。
もう一度、出羽菊をお代わりしながら、自然とFureaiのアプリに指が伸びた。
ある女性からメッセージが入っていた。10/24 20:23とあるから、いま入ったばかりだ。へえ、と思った。読みかけたが、篠原が戻ってきたので、帰宅してからゆっくり読むことにして、急いでスマホをしまった。
「おや、またお代わりしたのか。じゃ、俺も」
そう言って篠原は、今度は加賀鷹を注文した。