第64話 堤 佑介Ⅸの2

文字数 3,706文字

 

昼飯の後、本屋に寄って、鶴見未菜という国際ジャーナリストの評判の本『売られゆく日本』を買う。目次を見ただけで、これはたいへんなことが書いてあると直感した。電車の中で始めの水道民営化の部分をざっと読む。

朝尾財務大臣がアメリカ講演で「日本のすべての水道を民営化します」と宣言したことは知っていた。こいつは何てバカなことを言っているのだと当時思ったが、それがいかに国民を愚弄したものであるかについては、それほど意識していなかった。

ところがこの本を少し読み進めるうちに、怒りが込み上げてきた。

水道民営化は、不動産取得と同じで、例によって外資規制がない。しかもコンセッション方式といって、施設の所有者は自治体で、参入企業は運営だけやればよいことになっている。だから災害による断水や修理に関して、企業が責任を負わなくてもよいそうだ。

しかもほかの商品と違って、水には消費者の選択権がない。したがって、国際的な水メジャーが運営権を買い取れば、競争が成立せず、水道料金は高騰する。

現にパリ、ベルリン、アトランタなど、民営化の失敗に懲りて、たいへんなコストを覚悟しながら再公営化に踏み切った都市が、200を超えるそうだ。撤退した水メジャーは、免疫のない、うぶな日本をこれ幸いとばかり狙っている。その動きを政府はなんと自ら歓迎しようというのである。

そこまで読んだとき、また、けやきが丘駅を乗り過ごしそうになった。

この前、篠原と会った後にも感じたが、こんなに政治や経済の問題に入れ込んでしまっては、肝心の仕事がおろそかになってしまう。しょせん、政治や経済の話は、いま自分の目の前に迫っているのではない観念の世界の話だ。

私にとってはどちらも大事だが、さしあたり私に何ができるわけでもない。足元を忘れてはいけない。それにしても水道は日々の生活に直結してるからなあ……。

改札をくぐって社にまで歩く道すがら、考えた。

ともかく今日の会議の結果をみんなに報告したあと、どういうふうに今月半ば以降の職務配分を決めていけばいいかを話し合わなくてはならない。本部からのスタッフが来てからでは遅いのだ。

もちろん実際にはどうなるか未知の部分が多いが、アウトラインだけでも合意しておく必要がある。その方針をまず私なりに設計し、みんながオフィスに戻ってから、少し残ってもらって説明する。それが私の今日の午後の仕事。



欠けたメンバーもあったが、大半は退社時刻前に戻っていたので、「悪いが大事な話なので残ってほしい」と伝えて、今日の会議の結果とこれからの対応方針について説明した。

考えられる仕事。



①本部から出向してくる社員を温かく迎えて、円滑に仕事が進むようにすること。

②モデル地区に選ばれた大田区の町の状況を事前になるべく正確に把握すること。

③派遣された社員との協同体制を作ること。

④その主な担当者をだれにするか。

⑤他の仕事に支障をきたさないように、タイムスケジュールをそのつどうまく作ること。

⑥プロジェクトが始まってから、定期的に進捗状況をチェックし、今後の見通しについてきちんと判断できるようにすること。



6項目のうち、①については、山下から、出向社員の頻度と人数について質問があった。それは今日の段階では未定だった。追って連絡が来るだろうが、こちらからも聞いてみることにすると答えておいた。

②については、岡田から、これは出向社員が来る前から、こちらで事前にスタートしておく必要があるのではないかという意見が出た。できることならそれが望ましいと答えた。

④と⑤と⑥は連動しているので、私が、社員の諸事情を配慮しながら、役割分担のたたき台を示した。ほとんど異議は出なかった。しかし、これも始まってみなくてはわからないので、臨機応変に対応しようということになった。

八木沢が手を挙げた。

「持ち家を売って、賃貸に代えて、そこにそのまま元のオーナーが住み続けるっていう手法がありますよね。あれなんかも、このプロジェクトでは考えられますか」

「いいこと言ってくれたね。それはもちろんありです。あれって、けっこうメリットあるんだよね」

川越が聞いた。

「どんなメリットですか」

岡田が説明する。

「つまりさ、いちばんのメリットは、オーナーの老後の財産が現金で残ること、それから、もしローンが残っていれば払い切れる。あと、引っ越ししなくていいでしょ。老人にとって引っ越しはたいへんだからね。もう一つは不動産だと遺産相続問題でもつれやすいけど、現金ならわかりやすい」

「なるほど。よくわかりました」

私が付け足した。

「これからは、年取ったら賃貸のほうにシフトしていくだろうね」

みんなの表情をうかがいながら、少しずつ話を進めていったのだが、だれもあまりうれしそうではなかった。それはそうに違いない。しかしここはわたしを信頼して、頑張ってもらわなければ困る。

「たいへんになって申し訳ないが、それぞれうまく繰り合わせてしっかりやって行こう」

そのほかにも、オフィスから該当地域までかなり距離があることなども交え、これから予想される苦労に対して、ねぎらいの言葉をボソボソとしゃべった。それでも谷内や本田、川越など、若手陣は、目を見開いて意欲を示してくれた。8時を少し回っていた。



外で夕食を済ませ、帰宅したら9時半過ぎだった。

テレビをつけると、韓国の大法院が4人の徴用工に計4億ウォンの賠償金を払うように判決を出した問題のその後を報じていた。

韓国の反日態度にはあきれてものが言えない。

しかしもとはといえば、毅然と対応しない日本政府が悪いと思う。3年前の日韓合意からして間違っていたのだ。

あれでは、軍による慰安婦の強制連行があったかのように受け取られ、それに対して謝罪しているという、以前とまったく変わらない構図だ。何よりも国際社会に、そういう認識がますます定着してしまう。

これで韓国はこれさいわいとばかりつけあがるだろうと思っていたら、案の定そうなった。聞くも不愉快なので、消してしまった。

すでに一杯ひっかけているのだが、このままでは何か物足りない。例によって、オンザロックを作った。

このところ、CDをかけるのが日課のようになっている。疲れを癒すため、だけではなく、何かを期待しているのだ。何か? それは決まっている。自分の心をその何かにシンクロできるステージに持っていくためだ。

ヨーロピアンジャズトリオの『SONATA』――オランダのジャズトリオが、クラシックの名曲をいいセンスでアレンジしている。なかでもショパンの「雨だれ」が好きだ。



11/2 19:44で玲子さんからメールが届いていた。

書き出しが昔の手紙のようだった。

しかもさっきまで渋谷にいたのだという。

本部での会議が午後まで延びていれば、終わった段階でメールを入れて、どこかで会うこともできたかもしれない。そう思うと、残念と思うより、彼女の言葉が急に身近に感じられて、むしろ慕わしさが増してくるようだった。

でもそれをやったら、オフィスでの会議はできなかったわけだ。やはり早く社に戻って事をてきぱきと済ませたのがよかった。職業人としての誇りを失ったら終わりだからな。

メールには、ハロウィンのことが詳しく書かれていた。

彼女の言っていることは、まったくその通りだと思った。あの空虚なバカ騒ぎは、政府の経済政策による若者の貧困化に大いに関係がある。でも彼らは、それが政治の悪に由来することを自覚していない。

バイトテロなども同じだろう。これらの若者現象に見られるアパシーの気分が、ただ自分の置かれた個人的な環境のせいではなく、もっと大きな社会背景を持っていることに、みんなが気付くといいのだけれど、「ヘイワニッポン」では難しいだろう。

また玲子さんは、消費増税が国民騙しである理由を訪ねていた。これにはきちんと答えないといけない。

それと活け花の素敵な写真。『万引きファミリー』の的確な感想。

会社のエントランスに飾る役なんて、すごく名誉なことじゃないか。しかもとても周囲の雰囲気にマッチしている。

ハクチョウゲというのだったっけ、小さな白い花がたくさん、名残り雪のように散っている。それが左にぐっと伸びて主枝を作り、中間枝というのか、中央にも立っている。右に濃い緑色をした短めのシダが三本、元のところに赤いバラがやはり三つ、これを客枝というのだろうか。

活け花のことはよくわからないけれど、色合いといい、構成といい、とてもバランスが取れていて美しいと思った。

胃の中に静かに沁みていくウィスキー、軽快なテンポの「雨だれ」、そして目の前に心を落ち着かせてくれるきれいにしつらえられた活け花。疲れが一気に癒されていくのを感じた。こういう芸のある人が羨ましかった。

そういえば、半澤さんのお母さんは、お花のお師匠さんだと書いてあった。時間さえあったら、習ってみたい。

そう、そんな時間が必要なのだ。というより、作らなくてはならない。みんな暇がない、暇がないというけれど、忙しい時ほど暇を作りたいという欲求が高まり、そして事実、その欲求によって暇が作られるものなのだ。
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