第87話 半澤玲子ⅩⅢの3

文字数 2,057文字



意外と広い部屋だった。クイーンズベッドが幅を利かせていたが、手前にはテレビに面してラブソファまである。散財させちゃった、と思った。

コートとバッグをソファの上に放り出して、彼に抱きついた。彼の両腕が、わたしのからだをがっしりと締め付けた。彼の舌が優しく私の唇を押し開いた。

「シャワー、浴びてくる」

「うん」

新しくて、とてもきれいな浴室だった。もう一度お化粧直しをして、きのう買った下着をつけ、その上に、備え付けてあるタオル地のガウンをはおった。

彼がシャワーを浴びるのを待つ間、わたしはなぜか急に不安になった。うまくいきますように。彼をちゃんと迎え入れることができますように……。

わたしがベッドの脇にちょっとうなだれて立っていると、彼が後ろからそっと近づいてわたしの肩を抱き、わたしのほうに顔を傾けて静かに唇をつけた。同時にガウンの紐をゆっくりと引いた。ガウンが床に落ちた。


……されるがままになればいいんだわ。わたしの不安は和らいできた。

彼はからだを寄せたまま、ブラジャーのホックを上手に外した。そのまま手をわたしの腋の下から前に回して、ブラジャーを床に落とし、両の手のひらで乳房をそっと押し包んだ。

抱き寄せる力がだんだんと強くなる。熱く固いものが腰に触れるのがわかった。

「玲子さん……すてきだ」

ささやき声で彼が言った。

襟足から、うなじ、肩へと、彼の唇が這っていく。左手は乳房に、そして右手がゆっくりとわたしの下腹部を撫でながら、ショーツの中に差し入れられた。

ぴりぴりと電気が走るのを感じた。何年も味わったことのない感覚だった。膝ががくんと折れ曲がった。わたしたちは一つになったままベッドに倒れ込んだ……。


「不安だったの……ありがとう」

「……」

佑介さんは、黙って、サイドテーブルの水を飲んだ。

わたしは人差し指を使って、彼の裸の胸を上から下へ、おへそのあたりまですーっと撫でた。

彼はくすぐったそうに、くっくっと笑った。

それから佑介さんは、わたしのことを「れいちゃん」と呼んでもいいかと聞いた。もちろんOK。

「ねえ?」

「ん?」

「佑介さんは、子どもの時、お母さんから何て呼ばれてた?」

「ゆうくん」

「わたしもこれから、ゆうくん、て呼んでいい?」

「いいよ」

「ゆうくん」

「はあい」

「ゆうくん?」

「なあに?」

「ゆうくんはどんな子だった? 優等生? それともやんちゃ坊主?」

「やんちゃ坊主。いたずらして叱られてばかりいた。人の家のイチジク、いっぱい盗んできたり、教室の机に彫刻刀で彫り物入れたり、友だちのノートに落書きしたり」

「スカートめくりは?」

「それはやらなかった」

「なんで? わたしはしょっちゅうやられたよ」

「なんでだろう。きっと、女の子にあこがれてたんだと思う」

「ゆうくんは、そのころから変わってたのね」

「そうかもしれない。中勘助の『銀の匙』って読んだことある?」

「うん。若い頃ね。でもあんまり覚えてない」

「僕、あの主人公にすごく共感したんだ。幼馴染の女の子と夜ならんで座ってて、月の光を浴びた青い腕を見せ合って、『まあ、きれい』っていうところがあるの、覚えてない?」

「ああ、そうそう、思い出した。それで、そのころから、自分は、あの何ちゃんだったっけ。その子のことをきれいだと思い始めたっていうのね。」

「そう。それで、自分は女の子みたいにきれいになりたいっていうんだよ。兄が無理やり釣りに連れてくんだけど、河原のきれいな石ころばかり拾ってて、兄に怒られる」

「あのお兄さんは、男らしくしろ、鍛えてやるみたいに思ってたんでしょう?」

「そう。ところがね、あのお兄さんは、実際の兄をモデルにしてるんだけど、その兄が途中で脳出血になって30年間も廃人として生きて、最後は自殺しちゃうんだよ。反対に虚弱だった中勘助のほうは、そういう家族の重荷を背負いながら、80歳近くまで生きてる。虚弱だから早死に、剛健だから長生きとは限らないんだね」

「ゆうくんも小さいころ虚弱だったの?」

「そう。虚弱だった。かけっこも遅かったし、高校まで泳げなかったし」

「そしたら、ゆうくんも長生きね」

「ハハ……それはわかんないよ」

「長生きしてね」

わたしは、そう言って、佑介さんの腕に縋りついた。それから彼のからだのあちこちに口づけを繰り返した。それで……佑介さんが私を抱きとり、またしてしまった。今度はさっきよりももっと快感が強かった。


「あしたもお仕事、あるのよね」

「ある。でも今夜はここに泊まろう」

「え? 大丈夫なの」

「うん。そのつもりで来たし、それにここからオフィスまで近いから、ちょっと早く起きれば大丈夫だよ。いま何時?」

「10時半」

「じゃ、この最上階にカフェバーがあるから、そこで一杯やってから寝ることにしよう」

そう言って彼はもう服を身につけ始めた。

きれいな夜景を眺めながら、お互いの子どものころの話にしばし興じた。時計の針が重なりかけたころ、部屋に戻ってベッドに入った。抱き合ってキスを繰り返しているうち、これまでなかったほどの安らかな眠りに落ちた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み