第69話 堤 佑介Ⅹの1

文字数 3,250文字


 2018年11月15日(木)



昨日の夜、玲子さんに初めて会った。休日だったので、時間が来るのがもどかしかった。

こういう時は、何かにかまけるに限る。洗濯と掃除と、昼飯づくりと、買い物。それでも時間が余るので、本の整理をした。これが一番集中できていい。

だいぶ要らない本がたまってきたので、それらをまとめたら、けっこうな量になった。「捨てないで本舗」にメールしたら、すぐ返事が来て、今日中に段ボールを届けてもらえることになった。

積読本もけっこうあった。篠原から教わって、こないだ買った中山武志の『国富と戦争』もその一つだ。

そうだ、玲子さんに会ったら経済について説明しなくちゃならないかもしれない。しかしこの大著を今から読むわけにもいくまいと思った。

目次を見てから、本文をパラパラめくってみた。次のようなくだりが目に飛び込んできた。



《しばしば、日本政府が巨額の債務を累積しているにもかかわらず、財政破綻を免れているのは、民間部門が多額の金融資産を抱えており、これらの金融資産が銀行などの金融機関を通じて国債の購入に充てられているからだと言われてきた。……しかし、この議論は、銀行が預金を元手にして国債を購入するという、現実の信用創造の過程を転倒させた見方を前提にしている。実際には、内生的貨幣供給理論が示すように、銀行の国債購入が預金を創造するのである。したがって、民間金融資産の総額は、政府債務の制約にはならない。……個人や企業といった民間主体とは異なり、政府は通貨発行の権限を有する。それゆえ、政府が自国通貨建ての国債の返済ができなくなることは、政府がその政治的意志によって返済を拒否でもしない限り、あり得ない。……自国通貨建てで国債を発行している政府には、個人や企業のような返済能力の制約が存在しない。その限りにおいて、政府には、財政収支を均衡させる必要性は皆無なのである。》



これだ、篠原が言ってたのは。

しばらくその前後に書かれていることにくぎ付けになっていた。すべてを読みたくなったが、そんな暇はない。それに、こんな鮮やかな理屈を初デートの女性に説いたりするのは、限りなく野暮な話だ。口で言ったってすぐにはわかってもらえるわけでもないし。

それにしても、篠原という奴は、普通の社会学の枠をはみ出して、よくこんな経済理論の領域にまで羽を伸ばしてるな。あいつもやっぱりタダモノじゃない。

ふと時計を見ると、五時半近くになっていた。女性を待たせてはいけない。本の整理ですっかり手が汚れてしまったし、汗もかいた。あわてて本を閉じて、シャワーを浴びることにした。



約束より10分ほど早く着いた。予約した席は奥のほうだった。入り口のほうを見つめていると、やがてそれらしき女性が現れた。少しあたりを探すようにしながら、ゆっくりこちらに近づいてくる。しゃれた服装をしている。

私は手招きした。彼女はにこっと笑い、足を速めてテーブルのそばまでやってきた。

立ち上がって型通りの挨拶をし、二人一緒に席に就いた。

ほんとに若く見えるな、これで47歳? と内心びっくりしていた。

白ワインで乾杯した。カチンという心地よい音。

私が先に口火を切った。

「お仕事は忙しいですか」

「いえ、それほどでも。経理ですからやることは毎日決まっていますし。堤さんはお忙しいでしょう?」

「ええ。僕はやっぱりそこそこ忙しいですね。それに今度、本社のほうから新しいプロジェクトを命じられて、その分忙しくなりそうです」

「どんなお仕事?」

「下町コンセプト」について簡単に説明した。

「いろいろと気もお遣いにならなくちゃなりませんね」

「そうなんですよ。でも、本来は営業が仕事ですから」

「不動産業は何年やってらっしゃるんですか」

「もう20年以上、かな。その前は友人と塾を経営してたんですよ」

「あら、そうなんですか。わたしも学生時代は塾でバイト続けてました。教えるのって難しいですね」

「子どももいろいろですからね。熱心になればなるほど難しくなります。でも何でも一つの道って難しいですよ。特に最近は、サービス業が多くなって、生身の人間を相手にするでしょう。コミュニケーションが苦手な人にとってはつらい時代ですよね」

「ほんとですね。その点、わたしなんか数字相手だから、少しは気楽かも」

私はこれを聞いて、ちょっと違うんじゃないかなと思った。もしかして謙遜している?

「いや、でもやっぱりその数字も人に差し出すわけですから、相当神経使うんじゃないですか」

理屈っぽいことを言ってしまった。ボトルから彼女のグラスにワインを継ぎ足す。あわてて彼女が今度はボトルを取ろうとした。それを手で制した。

「あ、いいです、いいです。独酌で……」

「そういえば、わたし、こないだ計算間違いしちゃって、冷や汗かきました。若い子が手伝ってくれて、深夜までかかって何とか修正しましたけど」

「そうですか。それはたいへんだったですね。おとがめなし?」

「ええ、さいわい」

「それはよかった」



店内はかなり混んでいた。店員が店の広さに比べて少ない。あっちこっち、走り回るようにして客に対応している。最近はどこでも感じるが、雇用者を減らして安い給料でこき使っているのだろう。デフレが続いている証拠だ。

彼女のほうに目を移すと、丸首のセーターの上の白い肌にぽっと赤みがさしていた。可愛い、と思った。いつも私をいら立たせている、いまの社会に対するいろいろな不満をいっとき忘れることができた。

彼女が言った。

「そうだ、覚書って相当たまってるんですか。わたし読んでみたいです」

「いやあ、思いついたことをまとまりもなくパソコンに打ち込んでるだけで、ただの書き散らしのようなものです。とてもお見せできるような代物じゃないですよ。まったく自分のため。ただ時々読み返して、現代社会のおかしな現象に対して、憤りをそのつど復活させたりしてるわけです。精神衛生上、あまりよくないですね。でも好奇心だけは旺盛で、理屈屋だからやめられないんです」

「わたしも、堤さんほどじゃないですけど、女には珍しく理屈屋だって、この頃気づきました。好奇心もけっこう旺盛なほうです」

「そう言えば、消費増税のからくりについて知りたがっていましたね」

「あ、そうそう、あれはどういうことなんでしょう」

「僕もこないだ知ったばかりで、友人の受け売りで、うまく説明できるかどうかわからないんですけど……」

「かまいません。聞きます」

ナイフとフォークを皿に置き、濃い眉の下のクリッとした目を見開いて、生徒のような真面目な顔で私を見つめた。また可愛いと思ってしまった。

「国の借金が1000兆円を超えて、このままでは国家財政が破綻するって報じられているでしょう? でも、あれは財務省が税金の収入だけで支出を賄うべきだと考えていて、国債をこれ以上増発させないようにしているからなんですよ」

「阿川首相じゃなくて、財務省がですか」

「そう、財務省の力はものすごいみたいですよ。阿川首相といえども抵抗できない。いわば国家権力内部の抗争ですね」

「でも経理の観点からすると、負債は増やさない方が健全ですよね」

さすが経理だけあって、そこを突いてきた。でもそれは、企業や家計と政府とを同一視しているからだ。みんなこのトリックに引っかかっている。わたしもこの前まで引っかかっていたのだ。

そこで、日本の国債は100%円建てで、政府は通貨発行権を持っているので、原則としていくら負債を増やしても、返済の必要などないこと、また、国債を発行することで政府の負債が増えれば、それはそのまま民間の貯蓄になるし、政府が民間に仕事を発注するわけだから、その分だけ需要が発生して、経済活動がかえって活発になること、などをゆっくり説明した。

玲子さんは、初めわかったようなわからないような顔をしていたが、やがて、だんだん

呑み込んでくるふうだった。私のつたない説明を一つ一つ心の中でかみしめるように、軽いうなずきを繰り返していた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み