第116話 堤 佑介ⅩⅤの3

文字数 2,892文字



27日の朝、島村から突然電話があった。なんと「下町コンセプト」が中止になったというのだ。それで、これから緊急に説明会議を開くから本部に来てくれと言う。

「要するに社全体の業績不振で、予算の目途が立たなくなったんだ。俺も突然のことなんでびっくりしてるよ。ま、詳しいことは、会議で報告されるだろう」

一瞬、血が引く思いだった。年末も押し詰まった時にドタキャンとは……。岡田や前園君にがんばってもらったことが水泡に帰したわけだ。

そればかりではない。つい先日、苦労して決めたスタッフの新体制も、すべてとは言わないまでも、その重要な部分が無駄になってしまった。あれは「下町コンセプト」に有効な力を注げるようにするためのものでもあったのだから。

さらに、島村本人から頼まれた東海不動産へアプローチする作戦も、ほぼ出来上がりつつあったのだが、それもパーになった。

内容については伝えず、連絡があったので本部に行ってくるとだけ言って、オフィスを出た。道路に出る時、足元の仕切りにあやうく躓きそうになった。

電車に乗りながら、いろいろな思いが駆け巡った。

社全体の業績悪化とはどういうことだろうか。おそらくこれも長引くデフレからきているのだろうが、場合によっては、社運にかかわる状態かもしれない。

しかし考えてみれば、ウチ程度の事業規模で、ああいうプロジェクトを企画すること自体に無理があったのかもしれない。基本案がまとまった11月初めの時点で、すでにその危惧は他の営業所からも出されていた。

理念にまずいところはなかった。いまの日本社会や、それを反映した業界の趨勢からいって、よい提案だったと、いまでも思う。私も賛成したし、実行段階での労苦はさておき、本社として、発展のための乾坤一擲を投じる気構えだったのだろう。あるいは、伸び悩みを打開する窮余の一策だった可能性もある。

しかしウチの担当箇所の仕事に実際に踏み込んでみた時、これはもしかするとスラム化するアパート群を増やすだけなのかもしれないとの懸念があった。

また、れいちゃんと浅草の街を散歩したときも、外国人観光客の多さに驚いた。

あのコンセプトに最も適していると思われた地区も、かえってその下町性が災いして、彼らの住み着きが進んだら、やがては、日本のよき文化が壊されていくのではないかと心配になった。

いっぽうでは、これで仕事がかなり楽になるという安堵感もないではなかった。しょせんは無理な勇み足だったのかもしれない。そう考えると負担から解放される気持ちにもなる。

けれど、スタッフのみんなをあれだけ巻き込んで、その体制づくりに一丸となって協力してもらったのだ。所長として、相済まない気がしたし、挫折感も大きかった。


本部での説明会議は初めから陰鬱な空気のまま、20分ほどで終了した。

あまり具体的なことには触れられなかったが、要するに、同時進行させていた別の事業への資金繰りがこのままだと行き詰りそうなので、そちらに集中するためにこちらを切らざるを得なくなったということらしい。

別の事業とは、物流サービスとの提携である。いつか岡田が生き残りのためのアイデアとして話していたやつの一つだ。

前園君の姿もあった。後ろのほうで終始下を向いていた。

終わってから私に近づいてきて、あの快活さとは対照的な表情を見せながら言った。

「申し訳ありません。こんなことになって」

私は、年長者として、できるだけ威厳と冷静さを保つようにして答えた。

「いやいや、君が謝ることじゃない。こういうことはあるさ。それより、君こそ、若いんだから、早く立ち直って次の仕事に集中してほしい」

軽く肩を叩いてあげると、ちょっと泣きそうになった。

「はい。短い期間でしたけど、あの時はほんとにお世話になりました」

「こちらこそ。私のほうも、またお世話になる時が来るかもしれないよ。その時はよろしく」

「はい。どうぞよろしくお願いいたします」

帰りの電車でもいろいろなことを考えた。

まずは、スタッフにどう説明するかだ。

まあ、トップダウンで決まったことなのだから、事実は事実として淡々と報告するしかないが、岡田をはじめとして、みんなの落胆の顔を見るのがつらかった。

それから、もう今年は間に合わないが、再編成の問題も修正が必要になってくる。これはでも、大きな負担が一つ減ったのだから、かえってやりやすくなるかもしれない。

本部から派遣された小関君も、非正規だから、ひょっとしたらお払い箱の憂き目にあうかもしれない。そうならないように最大限の抵抗はするつもりだが。


最後に、私自身の問題。これがじつは一番、意識を占領していた。

この種の徒労感は、昔だったらけっこう早く立ち直ったのだが、今回は、ちょっと違っていた。

れいちゃんと一緒に歩もうという希望が一方にある。それだけに、かえって、この仕事をこのまま続けることに情熱をあまり感じなくなってきたのだ。

もしかしたら人生観の大きな変化の入り口に立っているのかもしれなかった。それは、徐々に徐々にからだのなかに沁み込んできたとも言える。ここ数年が勝負どころだと思った。


オフィスでは、心配したほどの落胆の感じは見られなかった。むしろ厄介な仕事が減った安堵感のほうが大きかったようだ。何よりも、岡田がみんなの前で、さりげなくこう言ってくれたのがありがたかった。

「所長。これしきのことでへこたれませんよ。ウチの看板は、所長以下の結束力です。これを活かして、来年からまたわれわれ固有の仕事に邁進しましょう」

タフなやつだ。いい部下を持ったことの仕合せを感じた。


そして今日28日は仕事納め。

おとといハウスクリーニングに来てもらったので、オフィス内は、きれいに片付いて、正面のガラスドアもピカピカで気持ちよかった。

私は自分の机や書棚の整理を行い、ゴミをだいぶ出した。いまは無駄になった大田区の地図や、狙い定めた物件の図面など、そのまますぐに捨てる気にはならず、眺めながらしばし感慨にふけった。

苦労して書いた報告書。これは今後の参考になるかもしれないので、保存することにした。

みんなそれぞれの残務整理に携わっていて、終わったのが1時ごろ。

川越が人数分注文してくれたサンドイッチやおにぎりで、ささやかに今年の最後を締めることにした。ビールとソフトドリンクで乾杯した。

「みなさん、本当にご苦労様。今年もみなさんの熱意と努力に支えられて、無事一年を終えることができました。まあ、いろいろありましたけど、いやなことは早く忘れて、希望を持って新しい年を迎えられるよう、健康で元気で、公私ともに頑張ってまいりましょう」

下手なあいさつを終えると、岡田が冷やかすような目をして、すかさず

「特に、所長には『私』のほうで頑張ってもらいたいと思います」と付け足した。みんなに知れ渡っているようで、笑いとさざめきが広がった。

 食事をしながら、きのうのことなどみな念頭にないような調子で、楽しそうに雑談した。

 「よいお年を」と言い合って散会したのが2時15分くらいだった。デパ地下のワイン売り場で赤と白のフランスワインを買った。
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