第70話 堤 佑介Ⅹの2
文字数 2,838文字
「ハイ!」と彼女が手を挙げた。またまた可愛いと思ってしまった。私は笑いながら、講演者が質問を受けるように、「どうぞ!」と手を差し出した。
「あの、いま聞いてて、よくわかったとは言えないんですけど、でも、そんなに難しい話とも思えないんですね。それなのに、どうして政治家やマスコミって、反対のことばっかり言ってきたんですか」
「いい質問ですね」
私は、彼女の振舞いに便乗して、先生然とした風を装って、答えた。
「それは、要するに、その難しくないはずのことがわかってないんですよ。ちゃんとマクロ経済のことを勉強しないからです。みんな財務省の財政破綻論に騙されちゃってるんですよ。自分のお財布の中身から類推しちゃうんでしょうね。でも私たちは政府と違って通貨は発行できませんよね。自分の財布と同じように、政府も財源に限りがあると思ってる」
「政治家って、政治のプロなのに、そんなに頭が悪いんですか」
「そうとしか言えないですね。私たちだって、国家の経済がどうなっているかなんて、普段考えないでしょう。そのレベルと同じなんですよ。頭が悪いだけじゃなくて、国民の代表なのに、すごく怠慢」
私は、玲子さんのズバリとした言い方に痛快な感じを覚えた。その通りなのだ。
「それと、ほんとはわかってるくせに、財務省の御用学者を務めている経済学者がいます。いろんな理屈をつけて、消費増税はどうしても必要だってね。財務省は、繰り返し繰り返し学者やエコノミストに財政破綻危機を吹き込んで、彼らを篭絡してきたんですよ。私たちも、偉い学者さんが言うことだから正しいんだろう、と何となく思ってしまう。それをうまく利用して、国民に負担を押し付けるんです。実際、2014年に5%から8%に増税されましたよね。その結果は、消費が落ち込んで、民間の投資活動も不活発になって、いまだに悪影響を及ぼしてます」
「財務省は、国民を苦しめてやろうと思ってるわけじゃないでしょう」
「それは思ってませんよ。だけど、ほら、官僚って、一度、ケチケチ路線が正しいって信じ込むと、それを宗教みたいに固く守って、絶対変えようとしないじゃないですか。もちろん彼らは善意でやってるつもりなんです。でも『地獄への道は善意で敷き詰められている』って言葉もありますしね」
「そうなんですか」
玲子さんはしばらく黙って考えるふうだった。
それから、
「……わたしたちどうすればいいんでしょうね」
「夕凪」のアキちゃんと同じ疑問だ。中央政府がやってることが間違いだとわかったとして、次は、誰でも「ではどうすればいいのか」と考えるだろう。
「そこですよね、問題は。たとえ正しい認識を持ったからって、権力が間違った政策をやって居座ってたら、どう動かしようもないですもんね。他にも阿川政権になってから、国民を苦しめるような政策をどんどん進めてます。あれは一言で言うと、巨大な多国籍企業と株主の利益のためだけの政権ですね」
「野党には期待できないんですか」
「いまの野党には全然期待できませんね。彼らも財政破綻論を信じ込んでます。それに阿川政権を倒すことだけに執着して、自分たちがどういう政権を作りたいのかっていうヴィジョンが何もないから、、与党や閣僚の失言とか、スキャンダルとか、枝葉末節なことばかりほじくり返しているでしょう」
「そうですね。国会中継って、テレビ番組の中で一番つまらないですね」
「ハハ……。ほんとに困ったことですね。さっきの話で言えば、私たちとしては、日本には財政問題なんてないんだっていう認識を少しでも広げていくしかないと思いますよ」
「だけど、わたしたち、ふだん会話してて、政治の話なんかできませんよね。下手なこと言うと人間関係壊すでしょう」
鋭い。優等生的な答えで満足しないところがいい。
「その通りですね。それはやめた方がいいと私も思います。だから社会的発言力を持ってる人で、信頼できる人を探し出して、その人たちの発言をたとえばSNSでハンドルネーム使ってシェアするとかね。絶えずその人たちの言動を追跡するとか。それくらいしかできないですね」
「堤さんは、どんな人を信頼してるんですか」
「まずは、例の篠原っていう社会学者の友人ですね。でもあいつはあんまり社会的発言力はないな。彼から紹介された中山武志とか、三石貴之とか、内閣官房参与の藤川悟とかは、頑張ってますね」
「あ、その藤川さんて、聞いたことあります。よくテレビとかネットに出てませんか。関西弁ですごく雄弁な」
「ええ、でも彼らは、残念なことに、まだ圧倒的な少数派なんですよ。そうだ、それと、最近買った本で、国際ジャーナリストの鶴見未菜さんという人の『売られゆく日本』というのがあります。これは今の日本がどんなにグローバル資本に浸食されているかが具体的に説かれていてとても参考になりますよ。すぐ読めますから、よかったら読んでみてください」
「はい、読んでみます」
そういって彼女は、著者名と書名をノートした。
「こういう人たちが中心になって、多くの人がうまく結集するといいですね」
「いや、じつは僕もそれを願ってるんですけどね。失礼、ちょっとトイレへ」
ここらあたりで、政治話はもう限界だと感じた。これ以上やると、せっかくの場が白けてしまうだろう。それにしても、玲子さんは、よく聞いてくれたものだ。私は自分を変人として紹介したけれど、この人も少しばかり変人かもしれない。
しかし一方で私は思った。政治思想を仲立ちにして男と女が仲良くなるとしたら、それって、何となく邪道じゃないだろうか。
できればその部分はなるべく棚上げにしておいて、もっと純粋にエロスの次元で惹かれあうようになりたい。政治の話なんかしなくたって、そうなれるはずだし、この人となら、なれそうだ。そっちで頑張ろう。
トイレから戻って、好きな画家の話をした。酔いも手伝ってか、佐伯祐三はユトリロなんかよりずっといいと言ってしまった。彼女はうれしそうに微笑んだ。
加山又造という人は、西陣織の図案家の息子だそうだ。スマホで、彼の絵を見せてもらった。いかにもその血を引いていて、しかも現代風で華やか。玲子さんが活け花をたしなむのと関係がありそうに思えた。
それから旅行の話。
青荷温泉というのは、前もってネットで調べておいたのだが、秘湯として有名らしい。数年前、親友と行ったのだという。夜はランプだけになり、テレビもないし、携帯も通じないという。彼女と一緒に行ってみたいとちょっとエッチな空想がよぎったが、もちろんそれは言わなかった。
映画の話。
是吉作品について花が咲いた。偉そうに蘊蓄を傾けてしまった。
あっという間に二時間が過ぎ、帰り際にフェルメール展に誘ったら、快く応じてくれた。とてもうれしかった。
地下鉄のホームで別れる時、彼女の電車が発車してホームを去るまで、窓越しに手を振り合っていた。こんなことするの、何年ぶりだろう、と思った。初デートで、恋の実感が深まったのを確実に感じた。