第65話 堤 佑介Ⅸの3

文字数 2,178文字



私は玲子さんのメールを読んで、ある種の心地よい幻惑の中にいた。財政破綻のウソなどを、いまメールで説明する気になどなれなかった。それをするなら、口でゆっくり説明した方がいい。

しかしそんなことより、彼女にじかに会って話したいという気持ちが強くこみあげてきた。政治経済の話なんかじゃなく、モネについて、佐伯祐三について、バッハやショパンについて、是吉監督の作品について、悠木果林について、フェルメールについて!

まずは日程をなんとか調整して、喫茶店で会うことにしよう。もうかなりの情報をお互いに交換はしたけれど、やはり直接会ってみなければ、本当の人となりはわからない。そう考えて、メールで質問に答えることはせずに、ダイレクトに誘いのメールを書いた。



《半澤玲子様

メール、ありがとうございます。先ほど、帰宅してから開きました。お花の写真、素敵

ですね! こんな作品を作れる半澤さんにあこがれてしまいます。

じつは今日、午前中、私も仕事で渋谷にいたんですよ。残念ながらすれ違いでしたけれど。でも、また少しお近づきになれたような気がして、うれしくなりました。



ハローウィーンの騒ぎのこと、まったくおっしゃる通りと思います。若者たちのこの空気は、明らかにいまの政治のまずさとつながっているでしょう。

消費増税が、政府の国民騙しである理由についてお尋ねですが、これはなかなか簡単には説明できません。私も、この前友人から聞いた話を自分の中で咀嚼し直して、もう少し勉強する必要がありそうです。時期が熟したらお話ししましょう。



マティス、佐伯祐三、フェルメール、どれも好きです。私の勝手な思い込みかもしれませんが、美術についても気が合いそうです。美しいものへ傾倒されるお気持ちと、お花を活ける趣味とがつながっていらっしゃるのでしょうね。私のほうはあこがればかりで、なにもできませんが。



でも、そのこととは別に、一度、お会いできないでしょうか。やはりこうして情報交換をしているだけでは、お互いに誤解の余地を残すかもしれませんので、じかに顔を合わせて明確な印象をつかんだ方がいいように思います。それでうまく行かないようでしたら、その時点でまた考えましょう。

性急なお誘いをして申し訳ありません。



ただ、私は普通のサラリーマンのように、土日を休めませんので、スケジュール調整が難しいですね。勝手なことを申し上げて恐縮ですが、もし水曜か第三木曜の夜7時以降、ご都合がよろしい日がありましたら、一時間でも二時間でも会っていただけるととてもうれしく存じます。あるいは、土日でも、こちらが比較的早く仕事を終えられれば、お会いすることはできます。

お会いすることに躊躇がなければ、その旨、お知らせいただければ幸いです。》



時計を見ると10時40分。風呂に入ることにした。湧いてからゆっくり入って、出てきたのが11時25分。

メールを見ると11時13分に、早くも返事が入っていた。



《堤 佑介さま

こんばんは。早速のお返事、ありがとうございます。

そうだったんですね。わたしもうれしくなりました。

お会いできていれば、お話が聞けましたのに。

ひとりでの食事は、慣れてはいるものの、やはり寂しいものがあります。



お会いする件、同意いたします。

近いところで、再来週の14日(水)か、15日(木)の7時ではいかがでしょうか。少したまっている仕事がありますので、それまでに頑張って、一段落させておきます。

わたしは浅草の近くに住んでおりますので、場所は都心近辺であればどこでもけっこうです。お任せいたしますので、どうぞご指定下さいませ。



申し遅れましたが、わたしのつたない活け花をあんなにほめていただきまして、まことに光栄です。たいへん勇気を与えていただきました。この次も力を込めて挑戦してみようと思います。



明日はお休みですので、今夜はまだ起きております。堤さんのほうでお差し支えなければ、お返事いただければ幸いです。》



やった。向こうから乗り気な様子がはっきりわかる。小躍りする気分で、すぐに返事を書く。



《半澤玲子様

さっそく申し出を受け入れていただき、ありがとうございます。

それでは、14日の7時に、四谷駅のカトレ2階、カフェ・グラナダでお待ちします。

予約は私のほうで入れておきます。

お会いできるのを楽しみにしております。

どうぞゆっくりお休みください。明日はお寝坊ができますね(笑)》



《堤 佑介さま

承知いたしました。

わたしも、心待ちにしております。

堤さんも、明日のお仕事に備えて、どうぞゆっくりお休みくださいませ♡》



 さあ、どういうことになるのだろうか。

たとえうまく行かなくても、それはそれ、しかたのないことだ。俺は若くないんだから、たとえ振られても、そんなに傷つくこともあるまい、と、自分に言いきかせながら、ベッドに入った。でも心は何やら中学生か高校生のような気分になっていて、なかなか寝付かれなかった。

 ほんとにこんなことで何かが始まるのだろうか。亜弥がどこかで今の私を覗いていたら、やっぱりあのクスクス笑いをこらえようとするだろうか……。
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