第78話 半澤玲子Ⅻの2
文字数 2,926文字
もう一度坂を昇り、毘沙門天を通り過ぎ、少し下りかけたところで左に曲がる。「おん」にたどり着くと、約束の時間には少し早く、堤さんはまだ来ていなかった。
1階がカウンターで、2階が掘りごたつ式の座敷席。予約を告げると、座敷席に案内してくれた。
小さいけれど、木がふんだんに使われていて、和風に徹している感じだ。カウンターに若いカップル、座敷席には、わたしたちの席と離れて、中年男性の三人組。
堤さんは、きっとこういうのが一番の好みなんだろうな、と思った。入ってきた時、カウンターの横に日本酒の大きな棚が置いてあるのに気づいた。豊富な種類が揃っている。彼は、どんなお酒が好きなんだろうか。
約束の7時半ちょうどに、「すみません。もうすぐ牛込神楽坂駅に着きます。10分くらい遅れます」とメールが入る。「お店でお待ちしています。どうぞごゆっくりいらしてください」と返事。
掘りごたつに足を下ろして待っている間、天井をしばらく見上げていた。昔の民家のような太い梁が渡されていた。そういえば、青荷温泉もこんなふうだったっけ。
そのとき、堤さんが階段を昇ってきた。わたしは子どもみたいに手を振って招いた。
「ごめんなさい、お待たせして。会議が延びちゃって」
「いいえ。たいへんね。お疲れ様」
中ジョッキで乾杯。
お料理は。
「ここは金目鯛の煮つけが名物だそうですよ。それいきますか」
「はい」
「嫌いなもの、ない?」
「ないです」
「じゃ、茹でアスパラと、お刺身の盛り合わせ取りましょうか。それと鳥の竜田揚げ。玲子さん、あと何か、どうぞ」
「このキュウリの梅昆布和えっておいしそうね……それと……揚げ出し豆腐」
「じゃ、それいきましょう。芋がらもうまそうですね」
注文を終えると、堤さんは、ジョッキを一気に半分ほど飲み干し、ふうとため息をついた。
「お疲れだったのね」
「ちょっとね。本社でややこしい打ち合わせがあって」
「無理なさらないでね」
「どうもありがとう」
「ここ、いいお店ね。くつろげるわ。よくいらっしゃるの?」
「いや、ここは二回目です。駅の向こう側に区民センター箪笥町っていうのがあってね」
「タンスマチ」
「ええ、きっと江戸時代から家具作りや指物師が多かったんでしょうね」
「まあ、あのあたりは職人さんの町なのね。味のある名前ね。それでこっちは色町……なるほど」
「ええ。そこに友人と落語を聞きに来たんですよ。その帰りにここを見つけて寄ったんです。落語を聞いたあとなんで、雰囲気満点でした」
「ああ、落語。わたしもいつか行きたいわ。連れて行って下さる?」
「もちろん。いい出し物を探しておきましょう。あまり縁がない?」
「ええ、ほとんど。ずっと昔、誰か年配の男性にくっついていったことがありますけど、たぶんその時だけですね。誰が出たのかも忘れました」
「そうですか。それならかえって新鮮な感じで楽しめそうですね」
「堤さんはごひいきの噺家さんているんですか」
「ええ。暇がなくて、ごひいきというほど聞いてませんけど、最近では、志んざ、三之輔、談奴なんかがいいですね」
「まあ、ひとりも知らないわ」
「みんな、それぞれすごい芸達者ですよ。あ、そうだ。落語好きの友人にもらった『落語閻魔帳』って本があって、300席近い有名な落語を解説してるんですが、これ、とても便利ですよ。著者は、えーっと、矢島正一だったかな、ちょっとあやふやですが」
「それ、買います」
「それから、小説で、佐藤佐恵子って人の『話せども 話せども』っていうのが、二つ目を主人公にしていて、すごく面白いです。小説そのものが、落語の現代版人情話みたいになってるんですね」
「二つ目って言うと……」
「一番下が前座ですね。つらい修業を積んで、やっと二つ目。それからがまた大変で、師匠のお眼鏡にかなうと真打となります」
「その本も買うわ」
金目鯛とお刺身を二人でつつく。揚げ出し豆腐は一つずつ。竜田揚げは、堤さん二つ、わたしが一つ。ちょっと夫婦になったみたいな気分だ。
「金目鯛、おいしいですね」
「ほんと。名物って書いてあるだけあって、うまいですね」
堤さんのジョッキが空になったので、「お酒、召し上がる?」と聞いてみた。
「あ、そうします。ここは酒の種類けっこう多いんですね。」とメニューを見ながら「この大信濃っていうのは、香りがあってけっこううまいですよ。玲子さんも飲む?」
「はい。いただきます」
「すみませーん。大信濃の二合とお猪口を二つ」
丸く広くなった陶製の片口冷酒酒器になみなみとたたえられた大信濃が運ばれてきた。
堤さんが私のお猪口にゆっくりと注いでくれた。
日本酒はふだんほとんど飲まないけど、口に含むとほのかに香りが広がって、コクがあり、ほんとにおいしい。日本酒ってこんなにおいしかったんだ。
それから話があっち飛び、こっち飛び、とても楽しい思いをした。活け花の話もした。堤さんはまじめだけれど、お酒が入るとけっこうひょうきんなところがあって、お腹を抱えて笑う場面もあった。
「大酒飲みはウチの家系でね。親爺はそりゃあひどかったですよ」
「お兄さんも大酒飲みなんですか」
「そう、血は争えない。僕が学生のころ、兄は会社勤めから帰ってきて、よく玄関前で寝ちゃってた。まあ、兄の場合は可愛いもんでしたけどね」
別れた夫の記憶が甦ってきた。あの人の場合は半端なかった。いまで言うDVってやつだったからな。ふと心配が兆したので、杞憂だとは思ったけれど、
「佑介さんは、大丈夫?」
「僕も若い頃は、多少無茶したけど、もともとそんなに強くないんで、汚い話で申し訳ないけど、飲み過ぎると戻しちゃうんですよ。だからだんだん自分のペースがわかってきてね。それと、食べたり水飲んだりしながら飲むと、あんまり酔わないんですよ」
彼は、ほんとに目の前に残った竜田揚げをぱくりと口に放り込み、もぐもぐ噛んで、それから水をゆっくり飲んだ。
たぶん、ウソじゃないだろう。今日だって相当飲んでるけど、乱れない。きっといいお酒なんだわ。
時計を見ると10時を回っている。ああ、時間が経つのが早い!
「そろそろ行きましょうか」と二人でほとんど同時に言って、立ち上がった。
伝票をつかんだ彼に向かって、
「今日はわたしも払います」
「いやいや、僕が誘ったんです」
彼はわたしの申し出を相手にしなかった。
わたしがライトブルーのチェスターコートをはおると、佑介さんが目を見張るようにして、
「あ、きれいなコートですね。とてもよく似合う。初めてカフェ・グラナダで会った時も素敵なお洋服だなって思ったんですよ。白い丸首の、衿のところにきれいな刺繍がしてある……」
とほめてくれた。
「ありがとうございます。よく覚えてらっしゃるわね。男の人って、女性の服装にあんまり関心持たないでしょう」
「ええ。一般に男は相手の服装に関心がないですよね。女性は見てほしいのにね。でもあの時の僕の場合はきっと……」
佑介さんは、その後を言わずに、言葉を濁した。何が言いたいか、わかった。
くすぐったかった。だからわたしもその後を問いただそうとしなかった。でもなんであれ、この人が、視覚的な感受性に優れていることはたしかだ。それはこの前のフェルメール展の時でわかっている。