第85話 半澤玲子ⅩⅢの1

文字数 3,311文字



 2018年12月2日(日)


佑介さんから4日前に来たメール。

《11/28 21:38

愛しい玲子さん

どうしてますか。お仕事、お疲れさま。

新課長のしごきで、へたばってなければいいけれど。

僕のほうは相変わらずです。忙しいと言えば忙しい。

この前、会社の近くの松風台というところで、一人住まいの84歳のおばあさんが老人ホームに移ったので、空き家となり、息子さんが売りに出したいと言ってきました。

日曜日に現地を見たのですが、もう古家と言ってよく、壊して更地にしたほうが高く売れると説明したのですが、一応そのまま売りに出すということになりました。

元はここに住んでいたのでしょうか。人手に渡るとしても、なかなか壊す気にはなれないのかもしれません。

世の物事は、人の生き死にも含めて、本当に移り変わっていきますね。もう11月も終わります。

でもこの秋は、あなたに出会えたので、この歳になって僕の人生が新しい彩りに染められ、すごく生きる励みになっています。思ってもみないことでした。こういう移り変わりなら、大歓迎ですけれどね。


今日は休日だったので、途中まで読んでそのままになっていた、中山武志という人の『国富と戦争』という大著に取り組みました。経済についてのみんなの常識を破っていて、すごく新鮮な本です。

でも、フェルメール展に行く約束をしたあともそうだったのですが、あなたのことが気になって、なかなか読み進めませんでした。もし興味がありましたら、読み終わったあとで、どんな本かお話ししますね。うまく要約できるかどうか、自信がありませんが。


活け花のお師匠さんになるかもしれないというお話、とても素敵で、希望の持てる将来像だと思います。もちろん、そこにはいろいろとハードルがあるのでしょうが、僕としては、そんな玲子さんにすごくあこがれます。本気で考えてみてはどうでしょうか。


いまショパンのマズルカを聞きながらこれを書いています。マズルカの中で一番好きなのは、15番です。なんていうか、いたいけな少女がいっしょうけんめい輪舞しているイメージです。でも心から楽しくてそうしているのではなくて、曲芸師に訓練を受けさせられているような、そんな哀しみもこもっています。

有名な5番と一緒に、添付しますね。


30日の金曜日、もしご都合悪くなかったら、会っていただけませんか。場所、時間はお任せします。7時以降なら大丈夫です。

お返事、お待ちしています。》


音楽にも詳しいんだわ。そういえばプロフィール欄に趣味の一つとして挙げていたっけ。

さっそく聞いてみる。ああ、たしかに5番は聞いたことがある。

15番は佑介さんの言う通りだと思った。一度そう言われたのでそのイメージが染みついちゃったのかもしれないけれど。それで他のマズルカと比べてみたいと思って、You Loopで探して聴いてみた。

似たようなイメージのものもいくつかあった。23番、25番、38番なんかもそんな感じだ。25番はちょっと哀しすぎるかな。でもやっぱり15番が、一番佑介さんの言うことにぴったり合っていた。

もう一度聴いた。主旋律のきらめきが際立っていた。

音楽のことはよくわからないけれど、全体に、ショパンのマズルカって、民族の歴史の哀しみみたいなものを背負いながら、それでもけなげに舞っているという感じだ。

今度彼に会ったら、音楽についていろいろ聞いてみよう。


あ、そういえば、お誘いが来ていました。金曜日。あさって。土曜日の前――これって、もしかして……そういうことよね。

うれしい、すごく。

そして恥ずかしい。

でも、覚悟がいるわ。だっておばあさんですもの。うまくいくかしら。ああしようか、こうしようか……。

でもそれは、夜が明けてから考えればいい。まだ間に1日ある。

だいぶ遅くなってしまったけれど、とりあえず、すぐにでも返事を書かないと。


《11/28 23:47

大好きな佑介さん

この間は、とても楽しいひと時をありがとうございます。

新課長、大したことないから大丈夫です。

佑介さんはたいへんそうですね。どうぞご無理をなさいませんように。


>世の物事は、人の生き死にも含めて、本当に移り変わっていきますね。もう11月も終わります。


この言葉、身に沁みました。

というのは、あの日の翌日、実家に帰ったのです。佑介さんのお仕事で、おばあさんが老人ホームに移ったので空き家をご覧になったのと同じ日ですね。それで、お隣のおじさんが少し前に亡くなったことを知らされたのです。小さい頃、とてもかわいがってもらったおじさんでした。

公園の紅葉が青空に照り映えて、あんまりきれいなので、散歩に出たら、亡くなったおじさんの奥さんにばったり。彼女も一人になってしまったわけです。

立ち話で、これからどうなさるのか聞いたら、わたしの母だって一人でがんばってるじゃないのと言われました。でも、母だっていずれ……ほんとに世は移ろっていきます。


あの提案、なんだか現実味を帯びてきましたね。支持して下さってありがとうございます。でも、もしそうなっても、これからもずっとつきあってくださいね。私たちの間には、「諸行無常」は、なしですよ。


30日、わかりました。なるべく早くお会いしたいので、7時に目黒線目黒駅中央改札ではいかがでしょうか。わたしは会社から5分ほどです》


すぐ返事が来た。自分のオフィスから目黒までは、40分ほどで行けるので、たいへんありがたい、駅近くのレストランを予約しておくとあった。


翌29日、仕事を終えてから、駅前のショッピングビルで、デパートの化粧品コーナーとランジェリー・コーナーに立ち寄った。不足してるわけじゃないけど、やっぱり……。

服装は決めてあった。初めて会った時のボタンデザインの入った白の丸首セーターにモスグリーンのロングスカート。彼は覚えていて、褒めてくれたっけ。それにこれも彼が褒めてくれたチェスターコート。ちょっと寒いだろうけれど、なに、室内なら、大丈夫でしょう。

ブラウン系のアイシャドウを使って眉を整えることにしたので、それも新しく買った。

ブラジャーとショーツを買うのにとても迷った。面積が小さくて、セクシーなのが増えてる。私のお腹、そんなにたるんでないと思うんだけど、あんまり小さいと滑稽だ。でも、オバサン的なのはダメ。かといって、お水系も喜ばれないだろう。

しばらく物色したあと、思い切って今着けているのよりちょっと小さめで、大人のセクシーな雰囲気を醸しているのに決めた。薄めのパープルと水色と白の三つをセットで。


帰宅してから、念入りにお風呂に入った。ムダ毛のお手入れも。

髪をドライヤーでよく乾かしてから、洗面所の鏡で乳房を映してみた。前は気楽に自惚れていたけど、ちょっと垂れてきたかなあ、と自信が揺らいだ。『マディソン郡の橋』のメリル・ストリープの気持ちが前よりもいっそうよく分った。

髪をかき上げて、合わせ鏡で背中とお尻を映してみる。お尻の張りはまあまあだ。

でもあんまり気にするのもどうか。佑介さんて、そんなことにさほどこだわらない人かもしれない。それに、あすは、まだ仕事があるんだ。どうせ少しは疲れが出る。

それから今日の買い物を一応試着。ちょっとエッチな感じだけど、うん、だからこそOKよね(*ノωノ)。

夕食は買ってきたもので簡単に済ませた。

それからパソコンを開いて、にわかクラシックファン。YouLoopで次から次へといろんな曲を聞いてみた。

ショパンのピアノ協奏曲1番、バッハのシャコンヌ、モーツァルトの40番、これは3楽章がすごくよかった。

グノーのアベマリア、ヘンデルのオンブラマイフ、この2曲はチェロで。

それからメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲、ベートーベンのバイオリンソナタ「春」……――ああ、音楽っていいな。体を直撃してきて、そして、体の中に入って、それから今度は、自分が音楽そのものみたいになって一緒に連れだってどこかへ出ていく。まるで恋人たちのように。もしかしたらわたしたちのように。ウフッ。

遅くなってしまった。まるで結婚式の前日のような気分で、眠りに入った。
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