第53話 堤 佑介Ⅷの1

文字数 3,300文字


2018年10月24日(水)


あれから西山ハウスに関していろいろなことがあった。

西山さんから中国人を受け入れる旨の連絡があったのが、先週の火曜日の午前中。

結局は背に腹は代えられないと考えたのか、それとも、トラブルが生じた時、いざとなればウチだけに任せず、接触に慣れた自分が出て行ってもかまわないと考えたのか、それはわからない。

とにかくこれで、管理業務を請け負わなくてはならないことになった。

すぐに入居希望者の陳秀洪さんに必要書類を郵送した。

すると、水・木の連休をはさんで金曜の午前にはすべてそろえて、奥さんが五歳くらいの男の子を連れて直接来所した。彼女はこの前も同伴していたそうだが、もう一度内見したいと言う。

さすが中国人夫婦。書類提出の速さとその鋭敏なビジネス感覚に感心した。これから取りかかるリニューアル箇所をあらかじめ細かくチェックしたいのだろう。

彼女は、普通の奥さんとは違うちょっと派手ななりをしていた。おそらく夜、お水系に勤めているのだと思われる。1年ちょっと前に夫に呼び寄せられて日本に来たそうだ。

山下の手がふさがっているので、中村に頼むことにした。接客があまり得意でない彼では、押しまくられやしないかと少し心配だったが、まあ、何事も経験だ。

案の定、帰社した中村に話を聞くと、ドアや窓の立て付け、隣室との壁の厚さ、水回りの劣化状態その他、いろいろな部分を詳しく調べ、図面の該当箇所にチェックマークを入れながら、カタコトの日本語で何度も質問したという。

書類に遺漏はなかった。印象だけからすれば、なかなか堅実な夫婦のように思えた。

「旦那に今日の調査報告をして、これからいろいろと注文つけてくるんだろうね」

「そうだと思いますよ。西山さんがなんていうかですね」

「まあ、覚悟の上だろうね。ただ敷金取ってないんだから、それが武器になるよね」



それからあくる土曜、予想通り、いろいろな注文をつけてきた。日本人にもその手合いはけっこういるから、別に嫌な感じは抱かなかった。ただ、西山さんとの間で折り合いをつけるのが面倒なだけだ。

久しぶりにスタッフに昼食をおごることにした。みんなで近くのファミレスに集まった時、そのことが話題になった。

「いや、私も言葉の壁があるのと、とにかく細かいんで苦労しましたよ。普通の倍近く時間がかかったんじゃないかな」

中村が弱々しそうにぼやいた。

「すみませんでしたね。ほんとはわたしが当たるべきだったのに」と山下。

「いえいえ、それはいいんですけどね」

「ったく、たかが8万かそこらの家借りんのに、文句が多いんだよ。先が思いやられますね」

強気の八木沢が毒舌を吐いた。

「しかし、これは中国人に限ったことじゃない。最近の借主は、安い家賃の家に限ってけっこうタカビーなのが多くて、ああだ、こうだとクレームつけてくるよ」

岡田がとりなすように言った。

そこで私。

「ストレスが溜まってるんだろうな。これも不景気からきてるんじゃないか。阿川政権になってからワーキングプアはずっと1100万人超えてるし、生活保護世帯はここ20年で急増して160万世帯で高止まり。アガノミクスなんてデタラメだよ。国民の不満は相当高まってると思うね」

「そこへもってきて中国人がどんどん入ってくるんでしょう。西山さん大丈夫かしらね」

山下が心配そうに言う。岡田がそれを受けて、

「西山さんもだけど、これは日本人全体の危機ですよ。インバウンドなんかで浮かれてる場合じゃないよな。だれか優秀な政治リーダーはいないんですかね」

みんな黙っているので、私が答えた。

「どうもいそうもないね。もっと危機が深刻になると出てくるかもしれないけどね。とにかくいざなぎ越えとか、ファンダメンタルは底堅いとかなんとか、政府はインチキな発表ばかりしてるし、こうやって貧困層が増えると、貧困層どうしでいがみ合いになりやすいんだな」と、私。

「悲しいことですね。それはとても」

山下が感に堪えたように言った。その溜息混じりの調子がみんなの笑いを誘った。

「どうして日本はこんなことになっちゃったのか、私もよくわからない。今度、大学で社会学教えてる友人と会う約束になってるんで、じっくり聞いてみるよ」

まあ、ぼやいていても仕方がないから、それぞれの持ち場で頑張るしかない、という平凡な結論でこの粗末な昼食会は終わった。



一方、普通の若夫婦とゲイカップルとは、それぞれ日曜日と月曜日に書類をそろえてきた。

私はどちらにも応対しなかったが、若夫婦は2階に、ゲイカップルは1階、中国人と一つ間を開けた部屋に入居することになった。

また同じ日曜日に、新しい入居希望者があった。西山さんよりは少し年下の老夫婦だ。

担当にあたった本田によれば、年金暮らしで、夫のほうは、デパートの地下駐車場入り口での交通整理をやっている。臨時雇いだそうだ。奥さんはパートに出て何とか生活をしのいでいる。あまり風采の上がらない雰囲気だったという。

老夫婦は中国人とゲイカップルの間の部屋に入居することになった。

彼らは皆、汚れた部分のクロス張替えやクリーニングなど、標準のリニューアル以外に格別の注文をつけたわけではなかった。しかし私はこの三組が並んで入居する結果になったことに、何となく嫌な予感がした。

とはいえ、オーナーにとってはとにかくありがたいことで、今のところ西山さんの作戦は成功したと言ってよかった。こんなに短期間に四組も入居が決まったのだ。残るは2階の二室だけとなった。



さらに昨日の火曜日、西山さんに来てもらって、陳さんの注文とのすり合わせを行った。電話でだいたいのことは話してあったので、彼は別に嫌がるふうは見せなかった。

しかしあまり面白い話でないことはたしかである。そこで私は、他の新しい入居者のことを伝えて、ご機嫌を取った。

「ほんま、おおきに。思うとったよりずっと早く埋まりましたな」

さすがに西山さんは相好を崩した。頬と目尻の皺がいっそう深くなった。

「ええ。あと2室も早く埋まるといいですね」

「ま、そううまくはいかんやろけどな」

「期間をおいて、第2弾という手もありますよ」

「そやね」

西山さんはまたにっこりした。

「それでさっそくですが、例の陳さんの要求の件ですが……」と、私は図面を出して、陳さんの奥さんがチェックした点を一つ一つ指摘していった。

「あ、いろいろおますようやけど、全部はあきまへんな。建具関係は代えるわけにいかんね。敷金も取っとらんのやから。網戸の隙間なんて我慢してもらうんやな。ほんのちょっとですやろ。壁も穴が開いてるわけやないんからどうしょうもない。ノブの不具合は調整してもらいましょ。フローリングの傷の大きなもんも、直しましょ。あとは何でしたかな」

「風呂とキッチンの水道栓の締りが悪いんで、パッキンを代えてくれと」

「それはOKやな」

「あと、照明器具関係ですね。少し暗いっていうんですよ。これは他の入居予定者もちょっと言ってましたけどね」

「そりゃしかし、器具全体を代えんでもええんとちゃいまっか。とにかく点くんやから。LEDでも何でも、新しい電球自分で買うてきてつけりゃえやないか」

「そういう契約条項になってますね。それで当面いいと思います。全部代えたら出費もかさみますからね。……ただ、これは先の話ということになりますが、いずれいろんなところが痛んできますから、ちょくちょくリニューアルしていく必要がこれから出てくると思います。私どものほうで借主さんと怠りなく接触を保つようにして、何かクレームが出た時には、そのつどアドバイス差し上げることにいたしますけどね」

西山さんの笑顔は消えていた。「しんきくさいこっちゃね」とつぶやいて、相談は終わった。



夕方、先方に貸主の条件を伝えようと電話すると、会社が休みなのか、夫の秀洪さんが出た。早口だった。しばらくごねていたが、敷金ゼロを持ち出して粘ると、向こうもさすがに折れてきて交渉が決着した。

あとは、入居時期を決めてもらって、契約書を交わすのみだ。やれやれ、と思ったが、あの嫌な予感は消えなかった。ほんまにしんきくさいこっちゃ。
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