第15話 半澤玲子Ⅲの3
文字数 3,174文字
駅から5分ほどの1LDKマンション。本社に戻って1、2年後だったからもう住み始めてから10年になるかしら。8階で見晴らしがいいので気に入り、思い切って買った。
エリに先にシャワーを浴びてもらって、その間、窓際に立って夜の景色を眺めていた。
隅田川の向こうにスカイツリーが光り、手前に浅草の灯りが煌めいている。でもひところに比べるとずいぶん寂しくなったような気がする。
バブルが崩壊したころに大学を出た。まだ不景気という実感はなく、バブル期の浮かれ気分は何年か続いていた。それからあの男と結婚して、3年で別れた。
ずっと同じ会社に勤めてきた。最初は営業に回されて消耗したけど、不向きと判断されたんだろう。結婚する少し前くらいからコールセンターでお客様の苦情聞きに転属になった。
一時は重荷が下りたようで安心したけど、いざやってみると、これも疲れた。私生活での苦労が重なってもいたし。
離婚してから安アパートを2回ほど梯子した。独身になっていくつかの地方支社に転勤になった。あのころは身軽で、地方の暮らしの様子がわかってちょっと面白かったかな。
本社に戻って経理に配属されてからはもうそういうこともなくなった。これから仕事の面で発展の可能性はたぶんないだろう。
この家に落ち着いてからは、何となく自分の人生はある決着がついてしまったような気分で毎日を過ごしている。ローンは初めはかなりきついと感じたけれど、最近では多少昇給もあったし、あまり気にならなくなった。
こうたどってみると、わたし自身の人生がしょぼくなっていくのと、社会に元気がなくなっていくのとが、なんだか並走しているみたいな感じがしてきた。ああ、よくない、よくない。そんなふうに考えるべきじゃないわ……。
「ありがとう。気持ちよかったわ。さすがトイレタリー系にお勤めだけのことはあるね。石鹸やコンディショナーなんかもみんなレオン製品?」
「一応ね。買わなくてももらえるから」
「それにしてもレイのとこ、どこもかしこもきれいね。ここ築何年だっけ?」
「たしかちょうど10年…かな」
「全然そんな風に見えないね。新築みたい」
「主人はしっかり古びてきたけどね」
「そんなことないって、レイ。これからこれから」
そう言いながら、エリは景気をつけるように、チリの何とかいう赤ワインの栓を勢いよく抜いた。わたしはオリーブの瓶詰の蓋に力を込める。
ひとわたり雑談をしてから、おもむろにいまの曖昧な気持ちを何とか言葉にしようと試みた。ワインの渋みがじんわりと広がる。
「さっき、エリが言ったことね。とても心に響いたのよ……やっぱり何か行動に踏み切らなくちゃだめね」
それ以上、なかなか言葉が出てこない。これではさっきと同じだ。
「うん。もちろん恋活サイトじゃなくたっていいんだけどさ。じゃあ他に何があるかって言ったら、いまさら若い子みたいに合コンでもないでしょう」
「そうよね。だいいち、そういう機会がめぐってこない」
「自治体の婚活イベントってダサいし、民間のは地方に出かけていくケースが多いから、お金と時間がけっこうかかるしね」
「調整がつかないわね。休暇使うんだったら、個人的に旅行した方が楽しいよね」
「灯台下暗し。会社に独身男性って、けっこういるんじゃないの」
「けっこういるんだけど、わたしのほうがどうも食指が動かないんだ」
エリは、しばらく考えるふうをしてから、言った。
「レイ、男欲しい?」
わたしはこの直截な聞き方に笑ってしまった。でも、それがかえってありがたかった。
「……うん。やっぱり欲しい。このままいくと、たぶん、仕事あと何年か続けて、辞めて、そのあと、実家に引っ込んで、自然に老老介護という末路ね」
「お母さん、おいくつだっけ」
「75になったのかな。まだ元気だけどね。妹一家に背負わせるわけにもいかないしね」
「こんなこと言ってなんだけど、お母さんがお元気なうちがチャンスかもね」
「そうなのよ。……要介護ばあさん付きじゃ、ますます道は細るよね」
わたしのなかで、しだいにある意思がマグマみたいに立ち昇ってきた。それはだんだん地表近くまでやってくるのがわかった。少し間を置いて、グラスに残ったワインを飲み干し、とうとう、ためらいを断ち切るように言った。
「恋活、やってみる。要領教えて」
エリは「よしきた」とばかりにスマホを取り出して、まず自分のマイページを見せた。写真はいずれも自撮りで、いろいろな服装、角度、表情を映していた。特に若く見せようとはせず、彼女の全体の印象がよくわかるようになっていた。
プロフィールの自己紹介文は、短めで、趣味や職業を書いた後に、少し自分の特長をアピールしながら、欠点などもやんわりと書き込んであった。
その後にいろいろな項目についてのチェックリストのような部分があった。年齢、身長、細めか太めか、喫煙の有無、年収、同居人の有無、結婚経験の有無、どういう出会い方をしたいかなどに答える仕組みになっていた。
もちろん答えたくない項目は空白のままでよい。相手の信用をより深く勝ち取るためには、年齢の認証が必要で、身分証明書のコピーを運営会社に送らなくてはならない。
次にエリは、相手の男たちのプロフィールを見せてくれた。
毎日20人くらいの「物件」を、入れ代わり立ち代わり無料で物色することができる。気に入った物件には「いいね!」を入れる。相手にはそれが伝えられ、自分のプロフィールを見てほしいという要望が届く。
女性は料金面で優遇されているが、でも要求をエスカレートさせたい場合には、一定料金を支払うことになっている。
双方の要望が一致すれば、マッチングの知らせが届き、それからは、プライベートなメッセージサイトで「文通」ができる。ただし初回はメルアドなどを知らせてはいけない。
数えたわけではないけれど、若い人が主流ではあるが、30代後半から40代前半が意外と多いように思った。
「いろんな男がいておもしろいね」
これが第一の感想だった。
いかにも格好つけてるやつ、モテないことを意識的に演出しているちょっと切ないやつ、顔は誠実そう、でも文章を読むと何となく嘘っぽいやつ、こんなイケメンがなんで? と不純な動機を疑いたくなるやつ、ああ、朴訥さがよく出てるけど、これだとなかなかいいお相手に巡り合うのは難しいだろうなとつい同情したくなるやつ……。
要するに、あんまり「当たり」はいないということだ。それを言うと、エリは、「そりゃそうだよ」とそっけないくらいの調子で答えた。
「この年代だと、かなり成約率は低くなるだろうね。ていうか、いい男はもう結婚しちゃってるってことね」
「じゃ、エリはもしかしたら金的を射当てた?」
「そんなのわかんないよ。まだこれからの話だし。一般的にってことよ」
心なしか、エリの頬が少し赤らんでいるように見える。
それから登録手続きや契約事項の要点などについての説明を聞き、マッチングを多くするコツを指南してもらった。
エリ自身が選んだサイトでなくてもいいけれど、メジャーなサイトのほうがやはり安心できること、顔写真は必ず鮮明なものを載せること、文章はいかにも誰もが書きそうなものではなく、自分の個性と思えることを、あまり極端ではない仕方でさりげなく挟み込むこと、あまりだらだらと書かないこと、チェックリストの部分は、取捨選択してもかまわないが、書くと決めたことは必ず正直に。特に「バツイチ」は絶対必要等々。
「サイトはごまんとあって、それぞれ特色があるから、ネットでいろいろ調べてみるといいよ。もちろん掛け持ちもありよ」
「ありがとう。じっくり検討してみる」
知らぬ間にワインが残り少なくなっていた。両方のグラスに注ぐともう空になった。
「成功を祈って乾杯」
「あら、この前と反対じゃない」
「そうだっけ。わたしも頑張りますわよ」