第55話 堤 佑介Ⅷの3

文字数 4,220文字



「しかし不思議なんだが、デフレ脱却できてないのに、消費税を増税しなくちゃならないのはなぜかね。やっぱり国の借金で財政破綻しちゃまずいからか」

「え!? 堤までそう思ってるのか。こりゃ財務省やマスコミの洗脳が隅々まで効いてるな。国の借金1000兆円で財政破綻ってのは、ありゃ、全部、財務省が流したデマだよ」

「デマ?」

虚を突かれて、思わず私は聞き返した。

「そう。三十年以上も前から政治家やマスコミを巻き込んで流してるデマだ。現に破綻なんかしてないじゃないか。国債金利はゼロだし」

「しかし財政が苦しい中で、これから借金を続けていけば……」

「これだから洗脳効果の恐ろしさには、今さらながらあきれる。だいたい国の借金て言葉がよくないよ。まるで俺たちが借金してるみたいだ。現に国民1人当たり800万円とか言って脅しつけてるからな。」

「じゃ、なんて言えばいいんだ」

私は自分も洗脳されていると言われて、ちょっとむっとしたが、篠原の言うことが本当なら、これはぜひ聞いておかなくてはならない。

マスターもアキちゃんも、口を開けて黙ってしまった。

「あれは、政府が日銀当座預金を通して銀行なんかから借りてるだけだから、『政府の負債』というべきなんだ」

「ふーん。しかしいつか返さなきゃまずいことも確かだろ」

「返す必要なし。破綻の可能性もなし」

「なんだって? どうして」

私は自分が常識だと思っていたことが、そのまま裏返しにされたような気がして、びっくりしてしまった。



篠原は、まず咳ばらいを一つしてから、おもむろに語り始めた。

「まず国債は100%円建て、つまり自国通貨建てなんだよ。政府の負債がいくら積み上がったって、政府は通貨発行権を持ってるよね。だから負債の分だけ円を刷りゃあいいんだから、原則的には返せないってことはありえない。だから財政破綻なんて起こりようがないんだよ。ほんとは刷る必要もないんだけど、それはまあ、あとの話として……」

「ちょっと待って。よく言われてるのは、ギリシャが財政破綻したように、日本も下手したらそうなるって話だよな」

「ギリシャは通貨発行権がなくて、ユーロで借金してるから、自国の財政政策に失敗したらEUにユーロで返さなくちゃならない。EUは金貸す代わりに、ギリシャに緊縮財政を強要した。だからギリシャは悪循環にハマって、ますます苦しくなったんだ。自国通貨建てかそうじゃないかは決定的なのに、連中は、ギリシャの例を引いて、国債の返済が滞るとギリシャみたいに財政破綻するぞ、とインチキなレトリックを使ってきたわけだ。みんな一国の財政を給料の決まってる家計と同じように考えるから、この罠にまんまと引っかかる」

「ああ、なるほど。その違いは分かった。日本政府はその点、外国から借金してるわけじゃないからEU各国と違ってフリーなんだってことだな。だけど、借りたものは返すのが常識だろう」

「いったい誰に返すのかね。銀行が返済を政府に迫ったとでもいうのか。これもあとで話すけど、銀行は政府が国債を発行してくれなかったら、かえって困るんだよ。しかも政府は公共的な資金が必要な時には、いつだって借金し続けてきたんだぜ。でも現にこれまで財政破綻したことなんか一度もなかったじゃないか。経済評論家の三石貴之が言ってたけど、明治時代初期から今まで、政府の負債は何と4000万倍近いそうだ。だけど全然破綻なんかしてない」

「うーん。そういえばそうだな。だけど、これもよく言われてるよな。日本は民間に膨大な金融資産があるから、それがあるうちは大丈夫だけど、政府の借金がそれに近づいていくと危ないって」

篠原は「そこだ」と言いながら、グラスに残った千代鶴をぐっと飲みほし、お代わりを頼んだ。アキちゃんがあわてて厨房に走る。ブランデーグラスに注がれた千代鶴は、なんだか少しいつもより多いような気がした。

「まさにそこが大きな間違い。みんな、民間が銀行にお金をたくさん預けてるから、政府は借金が増えても財政破綻を免れてると思ってるけど、話は逆なんだ」

「逆?」

「逆。銀行が手持ちの金融資産を元手に国債を買ってるんじゃなくて、彼らは国債を買うことで預金を作り出しているんだ。国債を購入しなかったら銀行は預金取引にも対応できない。これは経済理論家の中山武志が『国富と戦争』っていう大著の中でわかりやすく説いてる。

「ちょっと待ってくれ。もう少しゆっくり。通貨を発行するのは日銀じゃないのか」

「紙幣はね。しかし、日銀はじつは政府の子会社だ。行政府と合わせて統合政府と呼ぶ経済学者もいる。子会社だから連結決算で、政府が借りた分をチャラにできるんだ。現にこれまで日銀は大量の量的緩和をやってきたろ。市場の国債の買い取りだな。あれでもう、いまの時点で300兆円ぐらいは政府の負債は事実上減ってる。つまり、日銀が買い取りのために発行した通貨で、ちゃんと返済ができてる」

「じゃあ、政府は自分から返す必要は全くないわけか」

「そう。政府は負債を増やしてって全然かまわないんだよ。だけどいまの日本政府みたいに、どうしても返したいのに返せないって悩むんだったら、無利子無期限で次々に借り換えて行けばいい。でも悩む必要なんか何もないのさ。いま話したように、政府が国債を発行することで、つまり借金をすることで、かえって民間の預金が生まれるんだからね。これを経済学の用語で、信用創造といってる。信用創造は、べつに政府と民間との間でだけ成り立ってるわけじゃなくて、市中銀行と民間との間でも成り立ってるんだ」

「というと? たとえば企業が銀行から金借りる時とか」

「そう。みんな、銀行が企業や個人に金貸すときは、銀行に預金者からかき集めたそれだけの金がプールされてると思ってるだろ。財布の中の現金を貸すみたいに」

「え、そうじゃないの?」

「そうじゃないんだよ。借りたい企業がやってきて1000万円貸してくれって言うだろ。そしたら、極端な話、銀行は自分のところに一銭もなくても、通帳に1000万円貸したって書き込む。それだけで貸し借りが成立するんだ。だから信用の『創造』というわけさ」

狐につままれたような気分の私を見て、篠原はにんまり笑って、千代鶴をゆっくり口に含んだ。

「じつは、このリクツは国債の返済の場合でも同じで、政府は別に借金ぶんの通貨を発行して返済に充てるんじゃなくて、日銀当座預金の帳簿に、いくらいくら返済した、と記帳するだけでいいのさ。実際、毎年そうやってる。その時に何十兆円なんていう莫大な現ナマを動かすはずがないじゃないか」

「でも通貨発行権があるからこそ、返済ができるんだろ?」

「もちろんそうさ。だけど通貨発行権というのは、借りることが保証されてる担保みたいなもので、何も現ナマをいつでも出せますって話じゃない。その担保を活用して記帳することが、そもそも通貨が動いたことになるんだ」

うーむ。すぐにはピンと来ない話だ。何か物事の考え方を根本から変えないといけないような気がする。

「腑に落ちない顔をしてるな、堤。無理もない。それは、貨幣流通というのが、何か金や銀みたいな現物が動くことだという観念に囚われてるからだ。これは昔からずっと続いてきた囚われなんだ。紙幣が流通して、金銀が本位貨幣じゃなくなって、兌換が停止されたいまでも、まだみんなこの観念に囚われてる」

「……それは、つまり、こう言ったらいいのかな。貨幣流通は、モノが流通してるんじゃなくて、人と人との信用関係の動きを表してるだけだ、と」

「百点。そこまでわかってくれると話がしやすい。堤が、だれかの振り出した債権を持ってるってことは、その誰かをその額面の分だけ信用したってことだ。それ以外の意味はない。これを政府と民間の関係に適用してみよう。だれかの債務は必ず他のだれかの債権だよな。言い換えると、誰かの赤字は、他の誰かの黒字。だから政府が赤字国債を市中に振り出したってことは、そのぶん民間が黒字になったってことだ。つまり政府が国債を発行すれば、まずそれが民間の預金になる。企業がそれを使って生産活動に使われれば、それだけ民間経済は潤うことになるんだ。企業はその刺激を受けて、今度は自発的に設備投資なんかに乗り出すことになる。これを乗数効果っていう。それ以外にデフレから脱却する道はない」

「しかし国債は預金や現金とは違うだろう」

「いや、それは取引の形式が違うだけさ。そのからくりを説明してるとややこしくなるからやめるけど、国債も現金紙幣も預金も、その本質が借用証書だって点では同じだよ」

「現金紙幣が借用証書?」

「そう。あれは日銀が国民から借りてる借用証書なんだよ。現金は、モノやサービスとすぐに交換できるから、ピンと来ないかもしれない。でもその借用証書の値打ちを俺たち日本人はみんなが信用してるだろ。だからこそ、誰かが生産したモノやサービスと交換できる。つまり人から人へと譲渡することができるわけだ。でもいったん日本から出たら、ただの紙屑だよな。じつは、130年も前に福沢諭吉が同じことを言ってるんだよ。俺一枚は最高額の借用証書だぞーって」

「へえ……そうなのか」

「また、こんな勘違いもある。政府はまず税金を徴収して、それを使って政府支出に充てる、とみんな考えてるけど、実際にはそうじゃなくて、毎年、まずは政府短期証券を日銀に発行して、日銀当座預金を調達する。それを政府小切手の形で支出するんだ。税金を徴収するのは、その後なんだよ。つまりは、別に政府は税収がなくても普通に支出できるのさ。だから、社会保障の支出が足りないし、これまでの国債も金利含めて返さなくちゃならないから、みんな、増税を我慢してくれーって言うのは、全然嘘っぱちなんだよ。国の借金、つまり政府債務ってのは、じつはこれまでの財政収支の残高が積み重なったものに過ぎない。だから4000万倍になったって、別に政府は破綻なんか一度もしたことがないわけだ。さっき国の借金て言い方が誤解のもとだって言ったけど、政府負債っていうのも本当は不適切で、『政府投資』とでも言い直すべきなんだ。」

私は滔々と語られる初めて聞く話に、半ば呆然としながら、ゆっくりとその意味をかみしめようと思った。にわかには消化できない話だ。

ともかくこの話は、家に帰ってから、もう一度頭を整理して、ぜひ書き留めておかなくてはならない。
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