第44話 半澤玲子Ⅶの2
文字数 4,458文字
そして一夜明け、今日になった。
頭は相変わらず整理できない。昨夜からぐずぐず考え続けているうち、時はたちまち過ぎて、午後になってしまった。
たぶんこれは、頭で整理できる問題ではなく、大げさに言えば、人生の選択にあたって、きっぱりと決断する問題なんだ。とりあえず、目の前に迫っていることから決めていくしかない。
そう思って、とにかく岩倉さんに返信することにした。
会うべきか、会わざるべきか。
心のなかではもちろん答えは決まっている。でも何か決断する時には、いつも一抹の憂鬱感のようなものがわたしのなかで蠢く。
それをねじ伏せてPCを開き、キーボードに指を置いた。
《いつもお返事が遅くなり申し訳ありません。
昨日、花瓶を買ってきました。少し自分の部屋に彩を添えようと思ってのことです。
こんな小さなことが、自分を前向きにしてくれるような気がします。
お会いする件、賛成いたします。
場所も新宿三丁目のロートレックでけっこうです。
わたしはできれば土曜日が都合がいいので、挙げてくださった日の中では、一番近いところで20日が最適でしょうか。
でも21日の日曜日でもかまいません。時間は午後2時ごろでいかがでしょうか》
送信し終わったところで、携帯が鳴った。エリからだった。
窓からは、秋の西日が差しこんでいる。もうずいぶん日が短くなったのだ。
「今日、会えない? 無理?」
レンチャンか、ちょっときついなと思ったけれど、何かありそうな雰囲気だ。これは受けないわけにいかない。
「いいけど。どうかした?」
「うん。ちょっとどうかしちゃったかな」
声に元気がないというわけでもない。でもどことなくヤケ気味みたいな感じがある。
「そう。じゃ、一杯やるか」
「そうこなくちゃね。どこにしよ」
「エリの家の近くまで行くよ」
「悪いね。じゃ、6時に千駄木の改札口で」
「オーケー」
6時に千駄木ならまだ間がある。シャワーを浴びていこう。
服は地味目に、濃紺のセーターに細かいチェックのロングスカート。夜になると少し寒くなりそうだから、薄いジャケットも羽織っていこう。口紅も控えめに。
こんなふうに慎ましくするのが、たぶん落ち込んでるだろうエリに対するエチケットのような気がした。
駅の近くのビールバーで、座席に向かい合って腰を下ろした。
彼女も珍しくロングスカートなので、おや、やっぱり気持ちがシンクロしてしまうのかなと思った。でも違うのは、もともとショートの髪が前よりも短くカットされていたこと。わたしはここのところむしろ伸ばすつもりでいる。
口火を切ったのはわたしのほうだった。少し気を紛らしてあげる方がいいかもしれない。例の中田課長との顛末を手短に話した。それ以降の社内での二人の微妙な雰囲気についても。
エリの表情は快活だった。わたしの話をおもしろそうに聞き、そして笑い声を立てた。
「そりゃ、おかしいね。でもその中田さんて、可哀相だね」
「そうなんだけどね、わたしだってどうしていいかわかんないのよ。でもお互いじっと我慢してやり過ごしていれば、そのうちどうにかなるでしょう」
「それって、<男の子>って感じね」
そう、そういう感じ。ある思い出がよみがえった。
高校一年のころ、わたしに思いを寄せてきた男の子がいた。そんなにイケメンでもなくブサイクでもなかった。成績も中くらい、何か部活には入っていたが、特にスポーツが得意というほうでもなかった。まじめな目立たない子で、席が私の斜め後ろ、授業中もわたしのことを意識しているのが、何となく背中で感じられた。
下校時に男子と女子で連れだって帰る光景もよく見られるようになってきたころ。でもその子は、わたしを誘う勇気はなかったようだ。積極的に話しかけてくるのでもなく、何かちょっかいを出してくるというのでもない。
わたしのほうも、別段その子のことが好きだったわけではないから、ほおっておいたが、気にはなっていた。
ある時、その日の授業が終わって、みんなバタバタと教室を出て行った。わたしから遠い片隅のほうで、女の子が三人くらいおしゃべりをしていた。わたしは、やり残していた課題か何かを引き続いて処理してしまおうと思って、座ったままでいた。
その男の子も他の子たちと一緒に立ち上がったのだが、わたしが立ち上がらないのをいぶかるように上半身をこちらに向けた。でもみんなに遅れるわけにいかないと思ったのか、急いで他の男の子たちの後を追った。
女の子たちも出ていき、私ひとりが残った。
しばらくして、その子が教室に戻ってきた。
「あ、ちょっと忘れ物しちゃって」
私はちょっと微笑んで、それに応えた。
その子は、ぎこちない足取りでわたしの前を通って自分の席まで来ると、机の中を覗き込み、「あれ、ヘンだな、ここに入れといたはずなんだけど」と言った。
わたしは、内心おかしくなってきた。くすりと小さく声に出したかもしれない。
彼は立ち去りがてにぐずぐずしていたが、やがてためらいがちに、小さな声で言った。
「まだ残ってるの」
「うん。ちょっとこれ片付けちゃおうと思って」
「そう……。あのさ……」
「え?」
わたしは向きなおって、まっすぐ彼の目を見た。
「あ、何でもない。じゃね」
そう言い捨てると、さっきとはえらく違ったいきおいで、足早に教室を出て行った。
気の小さい男の子のヒソウな決意。そして挫折。
なぜか私はこの時のことを切り取られた断片のようによく覚えていた。名前も忘れてしまったし、その後どうなったかも記憶していない。
いまエリに指摘されて、そうだ、中田さんは、あの時の男の子とおんなじだと思った。乱暴だったり軽薄にふるまったりする人もたくさんいるけど、たいていの<男の子>って、確かにそういうところがあるんだよな。
集団でいる時と、一人で女の子に向かう時と、すごく違う。いくつになっても、それは変わらないんだ。可愛いというか、なんというか……。
けっこう二人とも黙っていたのだろうか、エリが独り言のようにつぶやいた。
「女房子ども持ちだったんだよね」
「えっ、例の彼氏?」
エリはただうなずいた。
「でも、どうしてわかったの」
「向こうも土日が休みなのに、いつも平日を指定してくるし」
「でも初めのころ、日曜日に会ってたんじゃなかったっけ」
「あれは無理してたんだろうね。それに会ってるとき携帯が入ると、必ず立ち上がってわたしから離れるんだよ」
「それって、仕事の電話で、雰囲気壊さないようにしてたんじゃないの」
「いや、顔つきからしてそうじゃないなと思った。しかもこっちから電話する場合には、必ず11時半以降にしてくれっていうのよ。それでね、おかしいと思って追及したわけ。そしたら、あっさり吐いた。本気で謝ってたけどね。」
そんなに落ち込んでるふうでもない調子で一気に言った。もう気持ちのけじめがついたのだろうか。そうだとすれば、いかにもエリらしい。
ふと「ヤリモクじゃないの」という言葉が口から出かかったが、この前聞いた話からして、それはたぶん違うだろう。
「彼氏は、独身じゃないのになんで登録したの」
「それも聞いたんだけど、ずっと奥さんとうまく行ってなくて、初めから別れる気だったって言ってた。まんざらウソとも思えないんだよね」
「それで……聞いていい?……したの?」
「した」
乾いた調子だった。
「それは、彼氏に吐かせるまえ? それともあと?」
「あと」
ということは、わかってて不倫したことになる。燃えちゃってブレーキが利かなくなったってことかな。
「いまでも奥さんと別れたいって言い分、ウソとは思えないの?」
「うん」
「いまでも好き?」
「そうね……そりゃ、許せねえって気持ちもあったよ……でも自分でもおかしいんだけど、心の整理がつかなくて、それでついレイに電話しちゃったんだ」
なんと応じていいかわからなかった。
気丈なエリがだんだん崩れていくようだ。顔が下に傾き、目線がわたしから離れてテーブルのほうに落ちている。
心の整理がつかない――それはつまり、まだ好きだっていうことだろう。けじめはついていないのだ。そうだとすると、相手の出方次第では、さらにのめり込むことだってありうる。
「ベッドではすごく優しかったし……」
ふいに、蚊の鳴くような声でエリが言った。見るとテーブルの片隅に目を集中させながら、涙をいっぱいためている。
「……いろんな話して気が合ってたしね。フェルメール展行こうって約束したんだ」
すでに泣き声だった。
彼女が自分のことで泣くのに初めて接した。わたしの離婚話の時、いっしょに泣いてくれたけれど。
わたしは、これからどうするつもりなのか聞きたいのを抑えるのに苦労した。
「まだ行ってないの」
「まだ行ってない。でも約束断りたくないし……」
しかし、彼女が気持ちを切り替えるのに長くはかからなかった。ハンカチでさっと両目を拭ってから、笑顔を作った。
「もういいの。ごめん。話してすっきりした」
そんなにすっきりしているはずがない、とわたしは思った。けれど、しばらくそっとしておいてあげよう。そう決めるとほとんど同時に、エリが笑顔を崩さずに元気な声に戻って言った。
「それよりさ……あ、すみませーん。ビールお代わり。……レイのほうは進行状況、どうなの」
わたしは、メール交換を通しての岩倉さんの印象、今度会う約束をしたことなどを話した。
「順調じゃない。その人、いい人みたいね。うまくいくといいね」
でもいまエリの話を聞いたばかりだ。同じような目に遭うかもしれない。
わたしは不安になった。これまでのやり取りが単なる虚構なら、通い合っていると感じた心の履歴はパーになる。
けれど、こういうことは十分考えられることだ。相手が妻子持ちでなくたって、他のいろいろな面で、全然期待していたのと違ってたなんていくらでもありうるだろう。
しかし何しろ、年齢が年齢だ。若い人たちのように、いくつものサイトに登録して、何度も繰り返すなんてことはできない。やり直すチャンスは限りなく少ない。
「でもレイも失敗だったら、勧めたわたし、責任感じちゃうな」
わたしの不安に呼応するようにエリが言った。「失敗」という言葉を使ったということは、この関係はもう思い切るということか。そうでもなくて、不倫になってしまったことを単に「失敗」と表現しているだけなのかもしれない。
それにしても、何でもてきぱきと決めていくエリでも、やっぱりこういうことには惑わずにはいられないんだろうな。
「エリ、そんなこと考えなくていいわよ。あれはわたしが自分で決めたの。それに失敗したって思ったら早く手を引けばいいんだし」
「そう言ってくれるとありがたいわ」
これ以上は会話が続かなかった。エリが今後どうするつもりなのかについて突っ込んで聞いてみる勇気が出なかったのだ。だから、こちらからお座なりな慰めとか、具体的なアドバイスを投げかけることはできない。
それに、そういうのは、いくら仲がいいといっても、あまりセンスのいい振舞いではない。エリの強さを信じて、ヘンな泥沼にハマらないように祈るしかない。