第76話 堤 佑介Ⅺの2

文字数 2,468文字



昨日20日の夕方、ようやく本部に報告書を送ることができた。

二人の合作はなかなかよく出来ていた。いずれも、ネットにはない写真付き。微調整をしてから、四つ選んだ物件に優先順位をつけるのがよいと思った。



1位 13号のシェアハウス

2位 1号の土地

3位 11号の賃貸アパート

4位 7号の賃貸アパート



これに、冒頭、「下町コンセプト」についての私なりの考えを付け足し、さらにそれぞれの取得にかかるコストの概算結果を入れておいた。

結局、土地にしてもアパート建設ということになるのだから、これが受け入れられれば、すべて小さな間取りの賃貸住宅ということになるのだった。そのほうが、ある種の下町的共同体の雰囲気が作り出せるかもしれない。その代わり、西山ハウスがはらんでいるようなトラブルの可能性も増すかもしれない。

こういう生活のあり方は、日本が豊かだった時代から見れば、貧しい時代への復古と言えなくもなかった。見方を変えれば、落語の長屋ものに出てくるような、庶民的な人情世界の復活を目指しているとも考えられる。

実際、そういう貧困層、高齢者層がどんどん増えているのだから、これはある意味で必然的と言えるだろう。政治が変わってくれない限り、残念ながら、私たちの仕事の領分では、そんなことを試みるしか、手がない。

心構えとして大切なことは、そういう人が、できるだけ毎日を気持ちよく暮らせるような環境を提供することだ。



そして昨日は玲子さんと待望のフェルメール展デートの日でもあった。

早いところ報告書の仕上げを終えて、と思ったが、そうもいかない。3時ごろ原案が出来上がってきたが、それから完成までに3時間半くらいかかってしまった。

まだ残っている所員もいたが、本部への送信を終えてから、ちょっと約束があるのでと後を頼んで、慌てて飛び出した。岡田と八木沢がちらりと意味深な視線を送ってよこした。

途中で腹がグウと鳴ったので、乗換駅でいったん改札を出て、立ち食いの釜揚げうどんを食べた。



西郷さんの銅像のわき道を急いで登った。

会場前には長い行列がS字状にできていた。会社帰りが多いのだろう。

玲子さんは、列の前から三分の一くらいのところにいた。にっこり笑って、早く早くというように手を振った。

「よかった、間に合って」

「息を切らしてらっしゃるわね。お忙しかったんでしょう」

「ええ、ぎりぎりまで報告書を作成していたもんですから」

「たいへんでしたね」

「まあ、いつものことです。でもおかげで、何とかいいのができたと思いますよ。入学試験みたいなもので、締め切り時間が迫ってくると、けっこうエネルギーを集中できるんですね」

会場入り口は2階になっております、と案内員がやかましく繰り返していた。

私は、じつはこの上野の森美術館があまり好きではない。奥にある、ル・コルビュジェ設計の西洋美術館に比べると、外観も展示空間も数等格が落ちると考えている。でも、いまは玲子さんとフェルメールが見られるのだから、そんなことはどうでもよかった。

初めの展示は、フェルメールと同時代の画家が描いた肖像画、宗教画、神話画と並んでいて、風景画、静物画から風俗画へとつながっていた。2階にはフェルメールの絵はなかった。最後の3枚がハブリエル・メツーという人の絵だったが、特にそのうち2枚は「手紙を読む女」「手紙を書く男」と一対になっていて、フェルメールが描いたのではないかと思った。

「女」のほうの衣服は、「真珠の首飾りの女」や「手紙を書く女」と同じだし、「女」も「男」も、左の窓からの光の当たり方が、フェルメールの他の絵とそっくりだ。

玲子さんが近寄ってきて、「これ、フェルメールのまねじゃないのかしら」と囁いた。

まさにその通りだった。しかも制作年代の推定が1年ほどしかずれていない。絵画の考証などまったくの門外漢だが、もしかしたら同一人物の可能性だってある。

私たちはしばらくこの二枚の絵に見とれていた。それから1階に降りて、順にフェルメール作品をじっくり見ていった。

やはり、「手紙を書く婦人と召使い」が素晴らしかった。夫人の白い衣装と召使いの顔が、窓からのほのかな光を受けて、背景の黒ずんだ絵の前で、くっきりと浮き出している。

見終わってから、美術館横のエレベーターで、下の飲食店街に降りた。

「ビール、飲みませんか」

「いいですね」

一緒に買った画集をビールバーで広げながら、感想を話し合った。

意見の違うところもあったが、だいたいが一致した。

私は言った。

「メツーもそうですけど、フェルメールは男女同士で手紙を書いたり読んだりする絵が多いですね。当時の上流階級の習慣だったんですね」

「手紙を書く習慣て……いいですね」

玲子さんが丸い目を大きく開け、少し上に向けて、何か憧れの対象を見るようにつぶやいた。

「そうですね。昔の人は悪筆でも文章が下手でも、時間をかけて一生懸命だったんでしょうね」

「その切実さを考えると、なんだか胸が熱くなりますね。でも今は電話やメールで簡単に片づけてしまう……」

「電話はたしかにあれだけど、メールでは、肉筆の生き生きとした表情はたしかに伝わらないかもしれませんね。でも、昔の手紙みたいに文章で頑張ればいい。僕たちも手紙を通じて知り合ったようなもんでしょう」

「ああ、ほんとに」

彼女は、今度は両手を頬にあてて、肘はテーブルにつけず、私をまっすぐ見つめた。じっと見続けていた。一度瞬いたけれど、目のかがやきは変わらなかった。

そのひたむきな視線は、私をたじろがせた。少し恥ずかしくなったので、まぶたを下に落とした。何気なく言った言葉が彼女にもたらしたその重みに、自分自身が耐えきれないような気がしたのだ。

なぜか篠原が言った、三島由紀夫の言葉を思い出していた――「女は愛の天才で、男は夾雑物が多過ぎて、愛で世界を包むなんて絶対できない」……。

私は彼女の思いをしっかり受け止められるだろうか。

自信がなかった。でも、こんなふうに見つめられている自分はいま、最高に幸福な瞬間を味わっているのかもしれないと思った。
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