第72話 半澤玲子Ⅺの1

文字数 2,020文字



2018年11月21日(水)


昨日のデートはフェルメール展。

まず2階に上がり、同時代の画家たちの神話画、風景画、静物画、風俗画などを見て、それから一階に降りて休憩所を通り、最後にフェルメールの絵を集中的に見せる演出になっていた。

フェルメールの絵はほとんどが風俗画だから、この順序は、とてもうまく考えられていた。

2階の絵で「いいな」と思った作品がいくつかあった。画家の名前は覚えられなかったけれど、二人とも画集を買ったので、会場を出てから立ち寄ったビールバーでそれを見ながら感想を話し合った。

わたしは、パウルス・ボルの「ギュディッペとアコンティオスの林檎」とヤン・ウェーニクスの「野ウサギと狩りの獲物」という絵が印象に残った。特に、ボルの絵は、とても不思議な作品で、一度見たら忘れられない。遥かな神話の世界に吸い込まれるようだった。

堤さんは、同じボルの絵とユーディト・レイステルの「陽気な酒飲み」、アリ・デ・フォイスの「陽気なバイオリン弾き」が庶民の表情が生き生きと描かれていていいと言っていた。ハブリエル・メツーの「ニシン売り」も、庶民生活を描いた風俗画の中では、老婆とニシン売りの女の明暗のコントラストに感銘を受けた、と。

でも、それより二人で感想が一致したのは、そのメツーが描いた一対の作品、「手紙を読む女」と「手紙を書く男」が、主題と言い、タッチと言い、フェルメールそっくりだという点だ。

「これ、フェルメールをまねたんじゃないかしら」と、絵を前にして、思わず堤さんに近寄って囁いてしまった。しかもこの二作品が最後に展示されていて、それから1階へと降りてゆくのだ。

堤さんは、その時は黙って食い入るように見ていたが、あとで、「僕もまったく同じように感じた」と言っていた。

「とてもよかったわ。『牛乳を注ぐ女』はもちろん傑作ですけど、わたしも堤さんが書いてらした『手紙を書く婦人と召使い』が特に気に入りました。例によって左から柔らかい光が差し込んでいるのに、手紙を書いている女性の白い衣装が強いコントラストを作っていて鮮やかに浮き出して見えますね」

「そうですね。同じことなんですけど、僕が今日感じたのは、この画家は、白の使い方がすごくうまいな、という点です。今日見た『赤い帽子の女』とか『ワイングラス』も『牛乳』もそうだけど、あの有名な『真珠の耳飾りの女』なんかでも、耳飾りの部分にちょっと白を置いて、すごく効果的ですよね」

「ああ、ほんとだ。『赤い帽子』の鼻先と下唇なんか、いちばん大事なところに点描みたいに白を置くんですね」

「しいて言えば、そこがメツーとは違うかもしれない」



それからわたしたちは、ビールのグラスを傾けながら、今日受けた感銘について、ずっと話し合った。もっと話していたかった。

「明日も早いんでしょう。そろそろ行きましょうか」

「わたしはまだ大丈夫ですよ。家まで近いですから。堤さんこそ、遠くてたいへん」

「僕は男だから、何とでもなりますよ。それに明日は休みだし」

「お友達と飲み明かしたりなんて、あります?」

「さすがに最近は自制を効かせますね。昔は、誰かが飲みたりなさそうだと、もう一軒、さらに飲み足りないと、めんどくさいから、ウチに来い、なんてんで、みんなでなだれ込んで徹夜とか。あのころが懐かしいです。ハハ……」

「堤さんのところは広さ、どれくらいなんですか。うちは1LDKで狭いんですけど」

「何平米くらい?」

「30いくつくらいだったかな」

「僕も一人だから狭いですよ。同じ1LDKで、リビングが少し広め、全体で40平米ちょっとですね」

行ってみたい、とまでは言えない。でも、ほんとは、なだれ込んじゃいたーい、と思った。

「堤さん、おしゃれだから、きっとお部屋もきれいなんでしょうね」

「いやあ、そんなことない。こないだ、帰ってみたら、散らかってるのに気づいてびっくりしました。男所帯に蛆が湧くってね。掃除なんてろくにしませんから。その時は慌てて片付けましたけど。……そうだ、そういえばあれはたしか、初めて玲子さんからメッセージをもらった時の夜ですよ。僕のことをユニークだって言ってくれて、うれしくて、それで、なんて俺の部屋は汚いんだって気づいたんだった」

「フフ……そうだったんですか。本とかで散らかってるんですか」

「本もありますけど、書類とか紙くずとか、ふだん使ってる家財道具」

私のメッセージで、散らかってることに気づいたなんて、こそばゆい思いがこみ上げてきた。おもしろい人。可愛い人。わたしのこと、初めてファーストネームで呼んでくれた。

でも、わたしが休みの日に行ってお掃除してあげます、というのも、まだ、言えない。



この前と同じように、地下鉄ホームで別れた。別れ際に彼が握手を求めてきた。ほっそりした手だったけれど、暖かい感触。

今度は堤さんのほうの電車が先に来た。堤さんが電車の中、わたしがホームで、この前と同じように手を振り合った。

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