第59話 堤 佑介Ⅷの7
文字数 5,195文字
それにしても、と心の中で苦笑しながらいつもの疑問が沸き上がってきた。なんで自分はこんな直接関係のない問題に性懲りもなく首を突っ込むんだろう。
亜弥にも諭されたっけ。自分の仕事に関係ないことに夢中になるより、自分のこれからのことを考えなよって。そうだな。これはやめることのできない俺の癖なんだ。
亜弥のアドバイスを思い出したら、また、Fureaiから届いている女性のメッセージのことが気になりだした。このほうがずっと健全かもしれない。
ちょうどその時、アキちゃんが近寄って、「申し訳ありません。ラストオーダーなんですけど」と言った。
さっき、きっとして私を見つめた篠原は、何と舟を漕いでいた。対策懇談会での熱弁と、さっきの「講義」と「朗誦」とで、だいぶ疲れたと見える。
「やあ、もうそんな時間か。帰ろう」
篠原は猫背を伸ばして立ち上がった。
マスターが奥から元気よく声をかけた。
「お疲れのようですね。どうも今日はいろいろ教えていただいてありがとうございました。またいらしてください。授業料払いますから」
「ハハ……授業料だなんて。かえって寄りにくくなるよ」
レジのところでアキちゃんが、愛想よくお礼を言う。
「ほんとにありがとうございました。難しくて私なんかよくわかりませんでしたけど、でも消費税の増税が必要ないんだってことは何となくわかりました。何の力にもなれませんけど……」
そう言ってマスターと目くばせしながら、なんと消費税分8%分を負けてくれた。
「いいですよ、そんな」と、篠原と私はハモってしまったが、アキちゃんは頑として譲らなかった。
電車の中でスマホを開く。
ニックネーム「ワレモコウ」とあった。まずプロフィールを見直す。
年齢:47歳(認証済み)
身長:159㎝
タバコ:吸わない
趣味:活け花、ショッピング、映画、美術鑑賞、温泉、国内旅行
《自己紹介文》
プロフィールを見ていただき、ありがとうございます。
年齢が高いので、ずいぶんためらいましたが、友人に勧められて、思い切って登録しました。
毎日仕事に追われ、出会いの機会がほとんどないうちに、ここまで来てしまいました。
でも、これからの人生のことを考えると、先が長いので、このままひとりで老いていくのには、とても寂しいものを感じます。
どちらかというと、インドア系で、静かな生活が好きです。
東京在住ですが、若い頃、仕事でいくつかの地方をまわりました。そのせいか、それぞれの土地の特色を味わうことに関心があり、休暇をとって国内各地を旅行することが時々あります。
年よりは若く見えると言われますが、これはお世辞かもしれません。
極端に離れているのでない限り、相手の方との年齢差にはこだわりません。
相手の方のお話に合わせるのは、わりと上手なほうです。
お料理は、普通にできます。煮物などが得意です。
わたしのことを可愛いと思ってくださる方との、長くつづく着実なお付き合いを求めています。
《ディテール》
職業:トイレタリー系企業経理部
休日:土日
体型:やや細め
居住地:東京
出生地:東京
家族:母、妹
同居人:独り暮らし
年収:500万円以上
婚姻歴:離婚
子ども:なし
好きな料理:和食、イタリアン
お酒:時々飲む
性格:温和・明るい
学歴:四大卒
休日の過ごし方:映画鑑賞、ショッピング、友人と会う、散歩、美術館巡り
転居の可能性:時と場合による
望ましい交際:ゆっくりメール交換をし、機が熟してから会う
この写真には見覚えがあった。いくつも「物件」をスキミングした中で、きっと印象に残っていたのだろう。美人、と言うより、「可愛い」系だ。色も白い。
「若い」という期待は裏切られたが、しかし私より八つ下、むしろ私とのマッチングは、年齢相応と言えた。
それに、プロフィールに書いているように、実際、歳よりもずいぶん若く見えた。眉が濃く、澄んだ目をしていて少し茶目っ気が感じられる。
今どきの四十代の女性っていうのは、人にもよるし、化粧のうまさもあるのだろうけれど、三十代前半と言っても全然おかしくないくらいに若い人がいる、と改めて思った。しかもこの人は四十代後半だ。
山下よりも少し年上か。彼女には悪いが、見慣れているせいか、あるいは世帯やつれしているせいか、山下のほうがかなりふけて見える。
ワレモコウさんは、私と同じバツイチである。離婚して何年経つのかわからないが、結婚生活に敗れた後遺症のようなものは感じられない。
トイレタリー系で経理をやっており、活け花が趣味、とある。お嬢さん育ちなんだろうか。まあ、別にお嬢さん育ちでなくとも、お花を趣味にしている人ぐらいいくらもいるだろうけれど。
ワレモコウというのはたしか野草の名前だったな。お花で活けるのだろうか。「ワレモコウ」で検索してみた。
花自体はそんなに華やかではないが、群生している画像が多く、けっこう野趣を感じさせる。こういう花みたいな人なのかな、いや、ただ何となくつけただけなのかな、などとあれこれ想像してしまった。
独り暮らしだから、お母さんと妹が同居してるのか。あまりお母さんと馬が合わないのかもしれない。いや、そんなことはまるきりわからないな。
などと思いを巡らせているうち、危うく乗換駅を乗り越しそうになった。あわてて下車する。
さて乗り換えてからメッセージを読んでみた。
《初めまして。
マッチングしてうれしく思います。
わたしはあまり自分からこんなことをするタイプじゃないんですけど、プロフィールを拝見して、関心を惹かれました。
これからお話しすることにご興味がなければ、どうぞそのまま聞き流してください。
まだこのサイトに登録してからそんなに時が経っていないのですが、数少ない方たちとのマッチングがありました。でも、「ゆう」さんのプロフィールは、わたしには、他の方とは違った一風変わったユニークなものに思えました。こんなことを申し上げてお気に触ったらお許しください。
どこにそれを感じたかと言うと、いくつかあるのですが、いちばん興味を惹かれたのは、休日の過ごし方の欄に「覚書を書く」とあるところです。どんなことを書いていらっしゃるのかな、と知りたくなりました。
また、「いろいろな社会問題に関心がある」とのことですが、どのような社会問題でしょうか。わたしにはむずかしいことはわかりませんが、日頃考えていることとの間に少しでも共通点を見出せたら、うれしく思います。
お忙しそうで恐縮ですが、お返事いただければ幸いに存じます。》
これが2時間ほど前に書かれた文章だ。
酔いが醒めずに、そのまま続いていくような気がする。乗り換えてからは、降車駅までそんなに時間がかからないので、あまり夢想にふけっている暇はない。それでも、自分がこの人と二人でちょっとの間だけ観覧車にでも乗っているような気持ちになった。
ともかく、一人の可愛い「中年女性」(この言葉は使いたくないが)が、私の「変人ぶり」に関心を抱いてくれている。ずいぶんまれなことかもしれない。
私が覚書を書いていること、社会問題に関心を寄せていること、それについて具体的に質問をしてきた。これには真面目に答えなくてはならない、そう、時間をかけて。
私の覚書。
いつもいろんなことをまとまりなく書いている。それは紹介するに値するだろうか。
私の社会的関心。
仕事を通して何かがあると、すぐにそこから発展して、少子化や晩婚化を考えたり、日本の貧富の格差について考えたり、中国人の静かな領土侵略を憂慮したり、LGBT騒ぎやポリコレブームの意味に疑いを持ったり、今日は今日で、篠原から財務省のとんでもない国民騙しについて聞かされて、ああ、俺は何にもわかっていなかったと自省したり――こんな自分をこの人はわかってくれるだろうか。
でも、この変わり者に向こうは興味を持って、はっきりと聞いてきているんだ。ちゃんと答えなければいけない。
美術館巡りと国内旅行。これなら一緒にできるかもしれない。お互い、身軽な身だ。たとえば、いまやっているフェルメール展やルーベンス展。また篠原が言っていた大分の湯布院……。
駅を降りてから7~8分で自宅マンションに着く。その間も、まだ見ぬ人のことを巡って次々に妄想を膨らませていた。
だがひょっとわれに返ると、シニカルに自分を見つめる目がやってくる。いったい俺は何をやってるんだ、と突き放したくもなった。俺はまだこの人がどんな人か、何も知らないんだ。冷静になれ、冷静になれ。
それに、この人は休日が土日、俺は水曜と第三木曜だけ。すれ違うから、もし会えることになったとしても、お互いが早く退けた平日の夜くらいしかない。そんなにうまいタイミングがそう簡単に訪れてくるとは思えない。
そう思ったとたんに、何かにつまずいた。あやうく身を立て直した。
並木道を通っていたのだが、大きくなったユリノキの根が盛り上がって歩道のアスファルトを押し上げているのだ。
見上げると南寄りの方向に満月が輝いていた。ひんやりした夜風がそろそろ色づき始めたユリノキの葉をかすかに揺らしていた。私は人通りもなく落ち着いたこの街路の真ん中で、ひとり気を高ぶらせている自分がおかしくなった。
でも、そんな自分を偽ることはできない。
帰宅すると、急に自分の家がいかに散らかっているかが気になった。これまでそんなことを気にしたことはなかった。こんなのは女性に見せられない。急いで片付けなくては。
いや、俺は何を言ってるんだ。誰が俺の家に来てくれると言った。それよりも彼女――「ワレモコウ」さんにまず返事だ。
明日は早いが、これは今日中に書いた方がいい。男の誠意の見せ所だ。でもあんまり長く書いてはいけない。相手だって、軽い気持ちで、試すくらいの気持ちでやってるのかもしれない。一人合点して自己満足に陥っては、こっちの気持ちを見透かされてしまう。
ゆっくりと着替えを済ませた。酔いはほとんど醒めていたが、冷蔵庫から天然水を出してたっぷり飲んだ。風呂は省略。
心を落ち着かせるためにシューベルトの即興曲作品90と作品142をブレンデルの演奏で、ボリュームを小さくしてかけた。そう、できるだけさりげなく。
《メッセージ、ありがとうございます。
ワレモコウさんのおっしゃる通り、私は少し変わり者だろうと思います。
不動産業のような泥臭い仕事をしていながら、いや、それだからこそと言うべきでしょうか、余計、仕事と離れた世界に空想を馳せるのかもしれません。
そんな私の部分に関心を寄せていただいて、正直なところ、びっくりしています。
覚書というのは、ただの日記ではなく、社会問題にかかわることについて、メモを取っておくのです。そして、休日の時間のある時に文章を整えたりします。といっても、自分の中では、仕事とまったく無関係というわけではなく、仕事で出会ったいろいろな人や出来事と地続きの問題について考えたことを書いているつもりです。別にそれをどうしようという計画があるわけではないのですが。
いま関心を持っているのは、まず第一に不景気がどうして終わらないのか、それから、少子化による生産年齢人口の減少、LGBT差別にかかわる問題、移民問題など、時々は国際情勢の理解にも首を突っ込みます。
今日もある親しい友人と飲んできたのですが、彼は大学で社会学を講じているので、不景気の原因について話してもらい、目からうろこの思いを味わいました。
自分のこれまでの不明を恥じると同時に、これは多くの人が知っておくべきだと思っています。
でも、初めてのメッセージ交換で、こんなお話をして、堅苦しい印象を与えてしまったかもしれません。
本当は、砕けた話も大好きなのです。落語を聞くのを趣味にしているくらいですから(笑)。
ワレモコウさんのお写真を拝見して、とても可愛らしい方だと思いました。また、文章に接し、しっかりものを考えていらっしゃる方のようにお見受けしました。
私はこんな方からメッセージをいただいて、貴重な機会を得たので、とてもうれしく思っています。
これに懲りず、これからもメッセージ交換を続けさせていただければ幸いです。
よろしければ、お花のことや、国内旅行のこと、美術館巡りのことなど教えていただけると、ありがたく存じます。》
何か所も書き直し、やっと書き終えて送信ボタンを押したら、即興曲がちょうど終わりを告げた。思えば、今日は出かける前と帰宅してからと、2回も音楽の世話になったことになる。
いろいろなことがあったけれど、何か、自分がこれまでとは違ったある心のステージに昇ったような気分だった。
悪い予感もあれば、よい予感もある。悪いほうは、たとえそれが現実になったとしてもひるまず立ち向かい、よいほうは、美しい音楽に包まれるようにその流れに身をゆだねて行こうと思った。