第25話 堤 佑介Ⅳの3

文字数 3,797文字


「なるほどねえ。要するに結婚したくても金がかかるからできないってことか。やっぱり不景気の影響かね」

「そう。それが一番大きい。でもみんなそのことに気づいていないんだよ。マスコミは景気がよくなったなんて言ってるけど、あれはウソだ。実質賃金はここ二十年、下がりっぱなしだからね。それにいま、非正規社員がうんと増えてて、短期間の転職も多い」

「ああ。政府は失業率だけ見て雇用が改善したとか言ってるけど、問題は雇用の質と形態だよな。とにかくすごく不安定な時代だな」

「うん。将来見通しが立たないから、結婚に踏み切れない。多くは親にパラサイトしてる状態だね。だから四十代になってもバイトで食いつないでいるなんてのはざらだよ。これは職業スキルが身につかないし、親がこけたらどうするんだって問題があるから困った状態なんだけど、当の学生諸君たちは、自由な働き方がいいなんて考えているみたいだな。」

主観と客観は常にずれる。客観的理由のほうは若者の意識調査なんかをやってもはっきり出てこないだろう。

「でも二十歳や二十五の若者に将来のことまでも戦略的に考えろというのはちょっと無理なんじゃないかな。こないだ来たウチの客でも、芝居に夢中になっていたんで、気づいてみたら派遣しかなかったってのがいたよ」

「それはそうだろうけどさ。でもそこが企業の目の付け所だよ。こんな情勢じゃ、これからブラック企業はますます増えるぞ。それともう一つ、これは地方に多いんだけど、結婚をためらう理由に、親の世代にイエ意識が残ってるもんだから、女性が相手の家に嫁として入るのを嫌がるってのもある」

「ははあ、なるほど。その後のほうの理由と関係があるかどうかわからないけど、俺は女性が経済力を持ったのと、コンビニやスーパーが個食をたくさん揃えるようになったんで男も女も独身でも困らなくなったことが大きいんじゃないかと思ったんだけどね。これは俺自身の実感でもある」

「うーん。それはどっちかというと原因であるよりも結果だな。ビジネスは男女の動向を敏感にとらえるからね。」

「ああそうか、なるほど。つまり独り暮らしが多いのを見越して」

「そう。そういえば俺の同僚でね。もう50代だから、それこそ生涯未婚率にカウントされちゃうんだけど、いい人がいれば結婚する気でいたんだ。仲間が仲介を買って出て、そいつのことを、こういう人がいるけどどうですかって、女性に持ちかけたんだそうだ。そうしたら、その同僚に会いもしないうちから、全然そんな気はありませんって言われたんだって。しかもなんとそれが三回もあったそうだ」

「みんな別の女性?」

「もちろん。その同僚はあきらめ気味に苦笑していたよ」

「それだけ聞くと、女性の方が結婚願望が下がってるように思えるな。でもその相手ってのは、一部のインテリ女性じゃないのかな。一方では結婚相談所とか婚活サイトなんかはすごく盛んなんだろう?」

「そう。だけどあの種のビジネスは、メジャーなところは収益は上がってるけど、それでも成約率は低いみたいだよ。実際にどれくらいかは、企業秘密だからわからないけどね。つまり、昔と違って女性のほうの理想水準が上がってて、それに応えられるだけの男がなかなかいないんだよ。結局、全体としては結婚願望はあるけど、さまざまな理由でミスマッチが多いってのが現状」

篠原は、まるできっぱりと結論づけるように、グラスをぐいと上げて、残りの酒を飲み干した。



二人とも酒がなくなったので、もう一杯注文した。少し腹を膨らませるために、追加でナスの味噌炒めとだし巻き卵。

「アキちゃん、お嬢さん、いくつになったんだっけ」

「5歳です」

「早いなあ。そろそろもう一人どう。少子化の歯止めに貢献しなくちゃ」

マスターにも聞こえたらしい。アキちゃんは、彼のほうにちらりと目配せしてから、恥ずかしそうに笑って答えた。

「ハイ、頑張ります」

マスターも包丁をたたきながらにやりとした。



 私は篠原に向きなおって、

「それにしても『生涯未婚率』ってのはふざけた言葉だな。人生100年時代とまで言われているんだから、50代で未婚だからといったって、これからいくらでも結婚機会はあるはずじゃないか」

「それってもしかして堤自身のこと言ってる?」

「あ、それは意識していなかったけど、もしかしたらそうかもしれない。今のところ再婚する気はないけど、このまま一人で年取っていくのが寂しいという感じは正直あるな」

「堤君。なかなか率直でよろしい。たしかにこれからは子どもが自立した後の人生をどうするかが大きな課題だな」

「再婚率は増えてるの」

「増えてる。高度成長期には下がってたんだけど、いまは当時の2倍を超えてるね」

「それだけ、一生この人と、みたいな結婚規範に縛られなくなったってことだな。とにかく個人化が進んでいるから、俺の仕事でも、もう昔の家族イメージで考えてると、思わぬ計算違いをすることがあるね」

「不動産業界でも、独り暮らしとか、子どものない夫婦とかのニーズが多いんだろうね」

「多い、多い。若者の独り暮らしよりもむしろ独居老人、それに子どもが自立しちゃった老夫婦、初めから子どものいない中年夫婦。話はそれるけど、あと問題なのは、木造アパートの空室率がここ3年ほどで激増しているんだ」

「それは何が原因なの」

「いろいろあるけど、相続税対策でアパート経営に乗り出した人が急に増えたんで、供給過剰になってるのが一番大きな原因だな」

「そりや、ケインズの言う『合成の誤謬』じゃないか」

「なんだっけ、『合成の誤謬』って。大学で習った覚えがあるけど忘れちゃったよ」

「要するに、ある人が家計支出を減らして貯金するだろ。でも考えてることはみんな同じで、みんなが貯金するから、みんなの支出が減る。だれかの支出は必ず他のだれかの所得だよな。だから支出が減れば全体の所得も減る。結果、家計の収入が減ってしまって、支出を減らそうとした意味がなくなるわけだ。マクロでみれば不景気になってしまう」

「なるほど。みんなが消費すればいいのにな。アパート経営者が金をため込もうとしてみんながそれをやると、供給過剰が起きて空室が増えちゃうから、結果的に収入が減る、と」

「そう。それにしても空き家問題は深刻だな。政府は手を打ってるのか」

「アパートの新築を抑制しようとしてるけど、効果薄だな。あと古い戸建ての空き家もすごく増えてる。老夫婦の一方が亡くなって、一人で戸建てに住むわけにいかないから、駅近のワンルームマンションに住みかえたり、ホームに入ったり、子どもの家にご厄介になったりして売りに出すんだけど、それが売れないまま残ってる」

「すると、トレンドとしては、これからは戸建てよりも比較的狭いマンションにシフトしていくと考えていいのかしら」

「うーん。売買の場合はそうだな。たとえば中古マンションの成約件数は去年の7月には前年比9期連続増だったけど、戸建ては2期連続減だった。でも、今年に入ってからは、全体として減少気味だな」

「なんだか、日本はだんだんお寒くなってくるな」

そう言って篠原はナプキンをとり、猫背をさらに丸めてくしゃみをした。



「話を戻すけどさ、堤は独り暮らし何年になるんだっけ」

そう言って、篠原はこちらに柔らかい視線を送ってよこした。

「ええっと、もう12年近くかな」

「ほんとに再婚する気はないのか」

単刀直入な質問に私はやや戸惑った。

「うーん、そう面と向かって聞かれると、迷うところだな」

「たとえばもし俺が、いい人がいるから会ってみないか、とか言ったら?」

「うーん……応じるかもしれない。会うくらいならいいよ。でもあんまり積極的になれないな。さっきの篠原の話みたいに、女性に三度も拒絶されたりしたら、ちょっとめげるよ」

「そういうためらいはよくわかる。でも、ご両親は亡くなってるし、えっと、別居してるお嬢さん、名前なんだっけ」

「亜弥」

「その亜弥ちゃんはいくつになったの」

「25、もうすぐ6だ」

「ちっちゃかったのにそんなになったか。もういい大人だ。堤は羨ましいほど身軽な境遇じゃないか。先はまだ長いんだぜ。一生独りでいいと覚悟を決めるか、そうでないなら、積極的にならないと、運命が向こうからやってくるなんてことはないよ」

「ありがとう。その通りだな。まあ、考えとくよ」

ここでしつこく追及されるても困るし、気恥ずかしくもある。子どもの話が出たのをいいことに、矛先を篠原のほうに向け変えた。

「そういえば、哲史君や卓也君はいくつになったんだっけ」

「哲史は、ええと27かな。卓也はまだ大学二年」

「彼女とかいるのか」

「どっちもいなさそうだな。いや、よくわからないけど、女房に言わせるといないらしい。いまは、恋愛や結婚に対する若い男のためらいがすごく大きいんだよ。ちなみにこれは、仮に経済力があってもの話だよ。というか、男が女にひどく遠慮せざるを得ないような状況になってる」

そう、それがまさに聞いてみたかったことの一つだ、と、私は心の中で膝を打った。酒のお代わりを頼みながら、思わず肘に力が入るのが自分でわかった。

「俺もそう思うんだよ。世間じゃ草食系が増えたとか精子が減ってるとかなんとか言ってるが、これって、男の生理的な問題じゃなくて、男女関係に関する社会的な風潮が変わってきた問題じゃないかと思ってるんだけど、違うかね」
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