第54話 堤 佑介Ⅷの2

文字数 3,766文字



そして今日は休日。篠原との約束の日だった。

午前中は洗濯、昼飯は牛乳とベーコンで、スパゲッティ・カルボナーラを作った。冷蔵庫がさみしくなっていたので、午後は買い出し。

篠原と会うまでまだ時間があった。フルニエの弾くドヴォルザークのチェロ協奏曲を聞き、ちょっとばかり感傷に浸った。チェロはいつも女性に呼びかけている――そんな気がしたのも、乾いた日々を送っている私の我田引水か。

「夕凪」へは私のほうが早かった。スマホに連絡メールが入った。20分ほど遅れるという。だいぶ忙しいらしい。

先にビールとつまみを頼んで一人でやっていた。休日にこの店に来たことはなかったが、客は他にはいない。

やがて篠原が猫背を丸めて入ってきた。なんだかどことなくじじむさくなり、髪の毛も少し薄くなったような気がする。早くも冬物のジャケットを着込んでいるせいだろうか。

「やあ、たいへんそうだな」

「悪い、悪い。さっきまで少子化問題対策懇談会ってやつに出ててさ。ちょっと議論がもめてた。……あ、すいません、ビール。それと……堤、適当に頼んで」

私はメニューを見ながら、生ガキ、さつま揚げ、特大オムレツ、刺身盛り合わせ、などを頼んだ。

「なに、それは政府の機関?」

「まあ、政府の息のかかった外郭団体だな。こないだ堤が言っていたように、『子ども手当なんかに金つぎ込むより、若い男女の出会い機会を増やす方向に積極的にシフトべきだ』ってぶったら、きょとんとしてる会員もいるんだな。頭の固い連中が多いんで、なぜそれが必要か説明するだけでも骨が折れたよ」

「それで説得されたのかね」

「まあ、理解してはくれたものの、動きゃしないだろうね。それと、感じたのは、女性会員のほうがこういうことには理解が早いな」

「なるほどね。そうかもしれない。女性は愛については男より真剣だからな」

篠原はジョッキを傾けて少し飲んでから手を止めて、カウンターに置き直した。



「そういえば、お安くないことをこないだ言ってたな。あれからどうした」

アキちゃんに聞かれたりすると恥ずかしいので、私は声を落とした。

「どうもこうもないよ。ただあんなこともやってみるかくらいの軽い気持ちさ」

「だけど、あれは、相当コストがかかるんだろ」

篠原はこちらのことなど忖度せず、いつもの大きな声だ。私はちょっとはらはらした。

「本気でやったらね。まったくいいかげんじゃ意味ないから、まあ半分本気ってことで、一応『6か月コース』申し込んで、12000円払わされたよ」

「それで? いい『物件』が見つかったかい。もうかれこれ10日も経ってるだろ」

「物件」と言ってくれたので助かった。それなりに心得ているようだ。

私はさらに小声になる。

「それがあんまり熱心に見てないんだよ。顔写真だけはヒマつぶしみたいによく見てるけどな。マッチングしたのも二、三あったけど、どうも言ってることが俺の趣味じゃないっていうか、ありきたりっていうか。そういえば67のばあさんもいたな。ちょっと引くよ」

「しかし、67はともかくとしても、おぬしもあんまり歳のことなど言ってられないんじゃないか」

「そりゃわかってるさ。しかし全体としては、若い連中どうしで盛り上がってるだけみたいなところがあるから、こちらは片隅でそっと」

「何だ、目の保養か。そりゃ堤自身のほうも情熱が足りないな」

「そうかもしれない。何しろ、仕事のほうで厄介なこともあってな。なかなか気持ちがそこまで回らないんだ」

「厄介なことって?」



私は西山ハウスの1件をかいつまんで話した。

篠原は興味を示して、途中、いろいろと口をはさんでディテールを知りたがった。特にゆくゆくけやきが丘がイタリアのプラートみたいになってしまうのではないかという懸念を漏らしたところでは、次のようなことを言った。

「その懸念は、気持ちとしてはよくわかるな。じつはあれから、中国の不動産爆買いのことが気になって、埼玉の芝山団地と群馬の大沼町に行ってみたんだ。大沼町はブラジル移民で有名だよね。ところが、あそこも韓国人や中国人がどんどん増えてる。低賃金で食っていけないブラジル人たちが、教会にすがるだろう。そこでコンビニをにわか作りの教会に改築して、プロテスタントの韓国人牧師が管理してる。ブラジル人はカトリックなのにね。その背後には中国が絡んでいるらしい」

「へえ、そうなのか」

「芝山のほうは、すでに7割以上が中国人らしい」

「え、7割以上? ネットには半分近くって書いてあったと思うけど」

「掃除のおじさんに聞いてみたら、そう言うんだよ。何しろ羽田空港に大きな案内広告が出てるそうだ。トラブルはあるかって聞いたら、そりゃあるけど、立場上言えないって答えてた。印象的だったのは、玄関に各戸のポストがあるだろ。部屋番号が打ってあるだけで、名札がほとんど入ってないんだよ。たまにあると、それは日本人名。日本人は高齢化してるから、ここはそのうち乗っ取られるだろう」

「うーん。中国人には、『郷に入ったら郷に従え』ってのがないからなあ」

「それと、北海道や沖縄や対馬の不動産が中国や韓国に爆買いされてるのはけっこう知られてるけど、いま問題になってるのが、奄美大島の東端の西古見っていう35人しかいない集落に、5000人だか7000人だかの中国人を乗せた20万トン級のフェリーが停泊する計画が進んでるんだ」

「国交省は何してるのかね」

「いや、何言ってんの。国交省のお墨付きで推進されてるんだよ」

「反対運動は起きてないのか」

「起きてるけど、それが奄美の美しい自然を守れっていうエコ系の運動なんだ。それはそれで大事だけど、国防の要地を守れっていうんじゃないところが問題だよ。それだと辺野古の珊瑚を守れと同じになっちゃう」

「この前も同じ話ししたけど、とにかく日本じゃ、外国人の不動産取得はフリーパスだからな。『外国人土地法』には、相手国の土地規制と同じ規制を政令で定めることができるって書いてあるのに、政令を出したことは一度もない。これじゃ戦争なんかしなくたって、領土をどんどん侵略されちゃうよな」

「そう。これ知ってる? いま全国で所有者不明の土地が九州全体より多いんだって」

「ああ、聞いたことある。400万ha超だってな」

「さすが不動産屋。これも恰好の餌食だな。誰かが買って、転売されちゃったら、全然追跡できないんだそうだ」

「だいたい、登記が任意ってのが異常だよ。日本の土地行政はないに等しい。登記を義務化すれば、それを土台にして外国人の土地購入の規制もしやすくなると思うんだが」

「それも今の緊縮財政下じゃ難しいだろうな。義務化するためには登記費用を安くしてもらわなくちゃ困る。そうすると国の負担を増やさなくちゃならんからな」



一身上の話をしていた時は小声で済ませていたが、こういう天下国家問題になると、自然と声が大きくなる。普段あまり口を利かないマスターもカウンター越しに耳を傾けていたらしく、中トロをきれいな手さばきで切り分けながら、珍しく自分から言葉を発した。

「そりゃひどいですね。政府はいったい何してるんだろ」

「そうなんですよ、マスター」

「ウチなんかも関係ありますね。漁場が荒らされたら、お客さんにいいネタ出せなくなりますよ」

新しい客が来ないのをいいことに、アキちゃんまでが真剣そうに聞いていた。

篠原が言った。

「漁場といえば、釧路なんかもう危ないですよ。港の周りに中国系企業がひしめいてるからね。あそこは北海航路の拠点にしようってんで狙われてるんだ。そういう事態に対して政府も北海道庁も、何ら対策を講じようとしない。幕末のころ、ペリーが来たでしょ。あんときは幕府の官僚が頑張って、外国人の国内移動距離を港中心に半径何キロ以内ってちゃんと決めたんだよ。そのころ中国では西洋人が国内を勝手に歩き回ってたからね。その中国が今度は、北海道をはじめとした日本の不動産を買いあさってるんだ。あのころの日本の気概はどこに行っちゃったのかね」

鎖国を解いて国を開こうという時代と今とでは比較にならないだろうと思ったが、それにしても、こんなに自分からグローバリズムを受け入れてしまうのは日本人の気概が失われたからだという篠原の意見には賛成だった。

私が黙っていると、アキちゃんが言った。

「なんか、戦争しないで平和でいいって思ってたら、いつの間にか土地は取られてるし、移民はどんどん入ってくるし、怖いですね」

「そ! アキちゃんとやら、いいこと言った。ドンパチだけが戦争じゃないんだ。これからの戦争は、サイレント・インヴェージョン、つまり静かな侵略といってね、経済戦、情報戦、歴史戦の時代なんだよ。不動産爆買いは経済戦の一種だな。だからもう戦争は始まってるんだよ」

マスターが言った。

「でもそれに対して政府は何にもしようとしないんですよね、負けっぱなしのままですか。日本は滅びちゃうじゃないですか」

「とにかくデフレ脱却してまずは国力つけなきゃどうしようもないな。マスターの言う通り、このままじゃ日本は滅びるよ」

ビールの泡を唇に残しながら、前回と同じように、吐き捨てる口調で篠原が言った。

この前「財務省は諸悪の元」と言った篠原の言葉の、その深い意味を聞きそびれたので、今回そこを突っ込んでみることにした。

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