第28話 半澤玲子Ⅴの1

文字数 2,218文字


                                 9月25日(火)



例の子ども用日焼け止めジェル、キーピィについてのクレーム問題は、該当地区の営業社員をほぼ総動員したおかげで、いまのところ対外的には大事にならずに済んでいる。マスコミにも知られていない。

しかしもちろん、社内的にはそれで片付いたわけではない。この商品を今後も販売し続けてよいのか。販売方法に抜かりはなかったか。本当にあの商品に問題があるのかどうか、等々。

この最後の課題は、研究開発部にフィードバックして検証しなくてはならないし、問題があったとしてもなかったとしても、広報をどのように行うのか。

コンプライアンスのあり方にも反省点が必要だろうし、クレイマーに対する対処法も、これまで通りでいいのかどうか、検討を重ねなくてはならない。

何しろいまの情報過多の社会では、蟻の一穴でイメージダウンが起きたら、全社にとって致命的だもの。わたしは東日本大震災のときの原発事故にかかわる風評被害の恐ろしさを思い出した。

あの時は、横に広い福島県の西の方まで、農家が大きな風評被害に遭った。事故そのものはたいへんなことだったには違いないが、わたしはあれはどうかと思ったものだ。

総務部には、会津若松出身の男性ベテラン社員がいて、当時、「あんなの、全然関係ないよ」と少し憤慨気味に漏らしていたっけ。「俺は、産地直送で故郷から送られてくるほうれん草を毎日食ってるよ」

でもなかなかそういう勇気ある発言て、公式的にはできないんだよなあ。



というわけで、このところ、社内がけっこう騒然としていた。

お昼休みに中田課長と近所のステラマックスで少し話をした。

いつもよりコーヒーが苦い。

「先週の木曜だったかな、研究開発部から報告が上がってきて、成分的には全く問題ないそうだ」

「そうなんですか。でも、頬かむりするわけにはいかないから、消費者向けにどういう対応をとるか難しいですよね」

「そうなんだよね。イメージにかかわるからね。それにしても、上の連中はちょっともたもたしすぎてる。マスコミがかぎつける前に機先を制さなくちゃならない。まったくマスコミは、自分たちのこと棚に上げて、なんか探り出すと、鬼の首でも取ったように煽り立てるからね。それに最近はSNSでの炎上も覚悟しとかないと」

「私も気が弱い方で、大きなことは言えないんですけど、問題がないんだったら、そうはっきりと発表すればいいと思いますけどね。」

「そう。どういう言葉を使うかにはデリケートな配慮が必要だけどね。とにかく『今回の場合は、厳重に検査を重ねた結果、普通に使用して問題はないことがわかりました』って言うべきだね。そのうえで、『でもお肌に合わない場合もあるので、そういうクレームのあった方については、弁償も治療代もお支払いいたします』ときちんと発表すればいい。ところが、そこが日本人の毅然とできないところなんだね。ずるずる先延ばしして、そのうちマスコミやクレーマーの圧力に負けて、ことを大きくしてしまう」

「そして幹部が謝罪」

「そう。『世間をお騒がせしてまことに申し訳ありませんでした』なんてね。謝罪する理由がいつの間にかすり替わってしまう。あの光景は見たくないね。慰安婦問題なんかでも、強制連行の証拠なんてどこにもないのに、『人間としての尊厳を計り知れないほど傷つけた』とかなんとか言って、とにかく謝っちまえで、結局相手にますますつけ込まれる」

中田さんとこんな話をしたのは初めてだ。ちょっとうれしくなった。同じ会社に勤める人間として、代表者の人たちにはぜひしっかりしてもらいたいと思った。

「でも、どうなるんでしょうね。キーピィについては」

「うーん、全品回収なんてする必要がないと思うけどね。製造年月日と販売地域の記録はあるんだから、それに該当する部分だけ回収すればいい。もちろん、きちんと説明責任を果たしたうえでね。しかしウチの幹部連中はそこまでやり切れるかどうか。どうも怪しいもんだ」

聞いていて、中田さんて、けっこう骨のある人なんだな、と思った。こういう人が出世すればいいのに、なかなか世の中そうはいかないみたい。

「課長、生意気なこと言いますけど、経理にいらっしゃるの、なんかもったいないですね。もっと活躍できる部署があるんじゃないんですか」

中田さんは、かすかに頬を紅潮させた。

「いやいや、私なんぞ、傍観者の立場だから、無責任にこんなこと言ってられるんですよ」

謙遜してそう応じたものの、褒められてうれしそうな表情が顔にはっきりと出ていた。

すると次に、少し顔をこちらに近づけて、いきなりこんなことを囁いた。

「半澤さん、今度飲みに行きませんか。二人で」

「あ、はい」

唐突だったので、思わずそう答えてしまったが、約束するつもりはない。

彼は物知りだし、考えもしっかりしているから、ある程度好感は持っているけれど、一緒に飲みに行くというところまでは、ちょっと勘弁だ。

第一、「二人で」って付け加えるところに下心が透けて見える。男っておだてに乗りやすくて、すぐ勘違いするのね。中田課長の顔が、さっきの凛々しい表情から、急にスケベオヤジに見えてきた。

まあ、不器用なところが可愛いとも言えるんだけど。

とはいえ、わたし自身だって、誘われて悪い気はしなかったのが正直なところだ。何しろ年ですからね。状況次第で受けてもいいかな、と揺れ動く自分がいたのは事実です。
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