第41話 堤 佑介Ⅵの3
文字数 5,163文字
昨日の休みに、例の『海風45』休刊騒ぎの下になった二つの論文を読んでみた。杉山未久のは、ネットで探し当てることができた。最終号は、かろうじて立野台の本屋に一冊だけ残っていた。
この号では、「そんなに間違っているか『杉山未久』論文」という特集が組まれていて、六つの論文が掲載されていた。このうちサヨク系リベラル系からの猛反発を食らったのは、小沢宋二郎という人の「主観的な『生きづらさ』は政治では救えない」という論文だろう。
ほかの五つには問題を感じなかった。
外で食事を済ませて帰宅してから、昨日感じたことをきちんと整理しておこうと思い立った。
前のウイスキーは底を突いたので、新しくシ―ヴァス・リーガルを買っておいた。いつものとおりオンザロックを作ってちびちびやりながらノートを取り始める。
杉山論文には、大した違和感を覚えなかった。「LGBTには生産性がない」という部分だけが切り取られて、サヨク陣営から人権侵害だと大騒ぎされたようだが、子どもが作れないことを「生産性がない」と表現したまでである。
杉山論文の要旨は、少子化の解決に貢献しない彼らに格別の政治的・法的な支援や税金の投入をする必要があるのかと問題提起しているだけだから、ごくまともだと思う。ただ、「税金の投入」というのが何を意味するのか、よくわからなかった。
大学生のころ、サヨクのご本尊のマルクスをちょっとかじったが、彼の本では、たしか子どもを産むことを「再生産」と表現していた。だからこの言葉に目くじらを立てたサヨクは、天に唾したことになるのではないか。
ただ、絶対平等主義や、篠原の言った「人権真理教」や、ポリコレが渦巻いているいまの世の空気の中では、誤解を受けやすい表現であることはたしかだ。
また、彼女は、LGBとTとを分けていて、T(トランスジェンダー)は性的な指向というより、むしろ「障害」として位置づけられるので、そのつらさを救うための制度的支援(社会福祉)はありえてもよいという意味のことを述べている。
これも妥当だと思った。
さらに、日本はキリスト教やイスラム教の文化圏と違って、昔から同性愛に対して寛容だったとも述べていて、これも亜弥に話したことと同じだった。
もう一つ、あの時考えたことと同じだと思ったのは、LGBT当事者にとってつらいのは社会的な差別よりも、親が理解してくれないことだと指摘している点だった。
親が自分の子どもは普通に結婚して子どもを産んでくれると信じているのに、それができないことを知ったらすごくショックを感じるだろう。だからなかなか告白できずに悩み続けてしまう。
これは、最近は当人が相談してくるよりも、親が知ってその悩みを訴えてくるケースが多いという、山名さんの人生相談の本にあったのと一致している。つまり、両方で悩みあっているわけだ。
この切実さなら、私にもよくわかる。親としては、最終的には受け入れるしかないだろうが、しかし親の知性とか寛容さ、また都会に住んでいるか田舎に住んでいるかでも、その許容度はずいぶん違ってくるだろう。
『海風』の最終号の中に、ゲイの松崎尚悟という人の論文があって、自分の愛する秋田県にはゲイバーが一つもなくてさみしいと書かれていたのが印象的だった。
つまり杉山論文は、エロス問題を政治的・制度的に解決することの不可能さを示唆しているわけで、それがLGBTという性的マイノリティを政治課題として前面に押し出すサヨクに対する有効な反論になっていた。
そうして、このことは、別にLGBT問題でなくても、エロスの問題全般に当てはまることだ。私はブサイクなのでもてません、何とかしてくださいと政治家に縋る人はいない。
だからこそ、サヨク人権主義者たちは、核心を突かれていきり立ったのだろう。
いや、核心を突かれたという意識などなくて、ただ自分たちのイデオロギーに反する考えを頭から否定しようとしているだけなのかもしれない。否定しないと、同和問題と同じで、自分たちの反権力的な政治思想に利用できるネタがなくなってしまうからだろう。
ただ、杉山論文には、荒っぽいところもある。
たとえば、何でも多様性を認めて、結婚相手にだれを選んでもいいとなったら、近親婚も許されるし、ペットや機械と結婚させろなどという要求さえ出てくる。そうなると常識や社会秩序は崩壊してしまう。LGBTを取り上げる報道はそうした傾向を助長しかねないと述べているくだりだ。
ペットや機械というところで笑ってしまった。実際にそういう要求をする人はいるかもしれないが、それはごく特異例で、あったとしても、そんな要求が認められるはずがない。
法制度というのは、人間のさまざまな欲望をどこまで容認し、どこまで規制するかを決めるところに意義がある。
そして、エロス欲望に関する限り、それはあくまで人間どうしの関係のあり方にかかわっている。自分はネコちゃんと夫婦ですと思うのは自由だけど、社会がそれを制度的に公認するかどうかとはまったく別問題だろう。
近親婚の場合も、現実に近親相姦がかなり頻繁にみられるという事実と、それを制度的に公認するかどうかとは、やはりまったく別の問題だろう。
そして、これからも制度的公認の気配はまずありえないと言っていいんじゃないか。人間の社会的本能として、家族関係の相互認知のしくみが崩れると、社会秩序そのものが成り立たなくなることがわきまえられているからだ。
それよりも私などにとって心配なのは、先進国では、少子化と晩婚化が今以上に進んで、家族自体が構成されなくなることだ。
職業柄、そうなると流動性がなくなって困るということもあるが、多産系の移民がどっと入ってきて、彼らがこの国を人口の面で支配し、日本の統治も文化も滅んでしまうのではないかという懸念もある。
杉山さんが、「何でも多様性がいい」「何でも自由がいい」というサヨクのイデオロギーを攻撃する気持ちの中には、「変えよう、壊そう」とする勢力に対する恐怖のような保守的感覚が読み取れる。それはそれなりに健全なものだと私も思う。
でもそれなら、杉山さんの属する民自党の政府が、消費増税や移民受け入れ拡大や水道民営化のように、国民生活を壊すような政策方針ばかり取っていることにもっと自覚的であってほしい。真の敵は内部にいるんじゃないのかな。
どうも政治家たちは、古典的な「みぎひだり」感覚の土俵で争っているだけのような、本当に争うべきことで争っていないような感じが残った。
次に問題の小沢宋二郎の「主観的な『生きづらさ』は政治では救えない」を読んでみた。
こちらは、タイトルはその通りだと思ったが、中身にはすごく違和感が残った。
チェスタトン(この人を私は知らない)、マルクス、ゾラ、オスカー・ワイルド、アンドレ・ジイド、トーマス・マン、三島由紀夫、ウラジミール・ホロヴィッツ、カラヤン、レナード・バーンステイン、コープランド、ミトロプーロス(この人も知らない)、レーニンと、わずか6ページほどの誌面に何と12人もの「権威筋」を並べて、妙に居丈高にLGBT擁護陣営を頭から切り捨てている。
まずその高踏インテリぶって得意になった文体が鼻についた。
しかも「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」と偉そうに書いている。ところがその興奮した調子からは、気になって仕方がない様子が伝わってくる。知るつもりもないなら黙っていればよさそうなものを。
要するに、この人は、LGBTなる新しいカテゴリー化そのものが、自分の「ノーマル」で伝統的な性意識の癇に障るので、ただ嫌いだと言っているにすぎない。
あるいは、LGBT擁護勢力がサヨク人権主義者なので、自分の保守思想に合わないという「感覚」を述べ立てているにすぎない。
しかしそれだけでは、言論としての体裁が保てないので、いろいろと「偉い人」を持ち出したり、もっともらしいレトリックを使ってその感情を粉飾しているのではないか。
最も変だと感じたのは、LGBTと痴漢を同じ性的嗜好(嗜癖?)のたぐいと見て、前者の権利が守られるべきなら、後者の触る権利も保証されるべきだと述べているくだりである。半分冗談のつもりだろうが、悪い冗談だ。
まずいと自分でも気づいたか、すぐ続いて「触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく」と大げさなことを吹いて、悪い冗談の上塗りをしている。
この言い分を本気で受け取るなら、彼はLGBT擁護勢力を殺したいほど気にしていることになる。それなら「知るつもりもない」というのは、言論人として失格じゃないのか。
この人は、根本的な勘違いをしている。ゲイやレズやトランスジェンダーは、選び取った性的な嗜癖ではないし、もちろん犯罪者でもない。逃れられずにそうあってしまう、普通とは違った性的「指向」の持ち主なのだ。
痴漢はそうではない。もちろん万引きと同じで、やっているうちに癖になり、逃れられなくなった自分の嗜癖に悩むこともあるだろう。しかしそれは、もとはといえば、男性の普通の性的欲望が高じて理性を上回ってしまったもので、窃視癖や風俗通いに病みつきになるのやレイプ犯になってしまうのと同じである。
でも痴漢行為は、少なくともその発端では、明らかに自覚的、意志的に選んだものだ。彼はいつも違法と知ってそれをやっている。しかも女性に大きな迷惑をかけている。
他方、LGBTは、それ自体としては、なんら違法行為ではない。
また小沢さんは、いわゆる「カミングアウト」について、「性行為を見せないのが法律の有無以前の社会常識、社会的合意であるように、性的嗜好についてあからさまに語るのは、端的に言って人迷惑である」と述べている。
これも単なる反感にもとづいた事態の歪曲である。
カミングアウトとは、周囲の差別や偏見の視線の重圧から自由になりたいと思って、勇気を出して表明することである。
それも当事者の性格や時代の情勢、だれにどの範囲で告白するのかなど、状況によるので、踏み切ることがいいことか悪いことかは一概に言えない。
それに対して、性行為を見せるなどというのは、ビジネスか露出狂ででもなければ、だれもしようとはしないし、する必然性もない。しかもこれは行動であって、カミングアウトのように言葉で表すこととは根本的に違う。
性的「指向」と性的「嗜好(嗜癖)」。発音が同じだからといって、両者を混同してはいけない。それは、ゲイやペドフィリア(小児愛)の中にも痴漢やレイプや誘拐を犯す者があることによってもわかるだろう。
さらに言うと、杉山論文が、LGBとTとを分けたことに対して、小沢論文は異を唱えている。
そのくだりで、トランスジェンダーを曖昧な概念としたうえで、「性意識と肉体の乖離という心理的事実が実在するからと言って安直に社会が性の概念を曖昧にすれば、必ず被害者を激増させる」と何の証拠もないことを吹いている。
被害者の激増? いったい誰がどんな被害を受けるというのか。
だいいち、この文は論理的に筋が通っていない。仮にトランスジェンダーという概念があいまいだとしても、それは「性の概念を曖昧にする」ことをまったく意味しない。
むしろ逆である。性的な体と心の不一致に悩む少数者が存在する事実を見出すことは、かえって人間にとって性の区別が重大なテーマであることをあぶりだすのだ。
LGBTを被差別者として高らかに言挙げする政治勢力に対抗しようと思うなら、少なくともこれだけのことを踏まえた上でそうするのでなくてはならない。「知るつもりもない」では済まされないのである。
ともかく、LGBT問題などを過度に取り上げて、政治課題にすることがサヨク・リベラリズムの退廃をあらわしていることはたしかだ。
いまのサヨク勢力がダメなのは、組合運動の衰退とともに、かつてのように、大多数を占める労働者一般の生活を守るという根幹の課題を喪失して、その埋め合わせのために、周辺部に、部落、障碍者、アイヌ、沖縄、女性、LGBTといった、一見みえやすい「弱者」マークばかり掲げるようになってしまったことだ。
亜弥も賛成してくれたように、また杉山論文でも触れられているように、生きづらさは誰もが抱え、しかも人によって千差万別で、政治で解決できる部分はごく限られている。
「自由・平等・人権」などと理想を掲げてみても、実際にはこの世は困難と制約だらけだ。そのただ中をかいくぐることによってしか、自由や平等は実感できない。そしてそれはこれからも変わらないだろう。