第113話 半澤玲子ⅩⅤの4

文字数 3,276文字



いっしょに後片付けを済ませてから、リビングでコーヒーを飲んだ。

佑介さんがテレビをつけると、韓国のレーダー照射のその後を報じていた。それによると、韓国政府は最初、レーダー照射を認めていたにもかかわらず、きのうになって、照射そのものを否定したという。そして今日の夕方、防衛省はようやく哨戒機が撮影した当時の映像の公開に踏み切ったというのだ。

「これってひどいわね」

「ひどい。でもある程度予想されたことだよ。これは毅然と対応しない日本が悪いんだよ」

佑介さんは、冷静な調子で答えた。あまりのことにもう怒る気もしないのだろう。少し韓国の話をしたが、適当なところで打ち切った。


「いつ引っ越してこようかなあ」

「楽しいね。それ考えるのって。そうだ、売りに出すとき、僕の会社の浅草営業所ね、あそこに出せばいいんだ。査定をなるべく高くしてもらえるよう、僕が話を入れておくよ」

「でも査定が高くてもその値段で売れるとは限らないでしょう?」

「それはそうだけどね。初めに安い査定されると、オーナーは何となくそれに引きずられて、安くつける傾向があるんだよ。いったん安くつけちゃうと、上げるわけにいかない。まずは査定額よりある程度高く出して、様子を見る。焦らず、ゆっくり」

「あ、そういえば売るの急ぐ必要、全然ないのね。先に引っ越しちゃったっていいんだもんね」

「そう。あんまり売り急がない方がいいよ。買い手がついてからもね、負けろとか言ってくる客けっこう多いけど、これ以上は絶対引きませんて、頑張りとおした方がいい。手の内明かしちゃうけど、不動産屋は早く手数料欲しいもんだから、先方の言うことを聞いてやってくれないかってしつこく口説いてくる。でも落とされちゃだめだよ」

「そういうの、ゆうくんもやるの」

「やるし、部下にもやらせる。正直、あんまりいい気持じゃないけどね」

あんまりいい気持じゃないってところに、この人らしさを感じた。

「わかった。がんばるね。時期的にはいつごろがいいの。やっぱり転勤や新学期控えた3月?」

「うん。一般的にはそうだけど、れいちゃんの場合、特にこだわらなくても大丈夫だよ。あそこならいつ売りに出しても、買い手つくと思う。ただ『いっぱち』って言って、一月と八月は避けた方がいいけどね。それと、引っ越して空き家にしてからお客さんに見てもらった方が、見映えがするよね」

「早く引っ越したい」

「僕も早く一緒に住みたい。ただ、ここだと、荷物多いでしょう。それで、お花飾るスペースが足りないんじゃないかって」

「あら、わたしのところより広い分だけ、結局おんなじよ。これだけあれば大丈夫よ」

それから佑介さんは、しばらく考えるふうをした。やがて何か思いついたらしかった。

「でもやっぱり二人で住むとなると、ちょっと手狭だよね。だから、いっそここも売って、もっと広いところに引っ越す手もある」

「ああ、考えてなかった。それいいかもね。家探す専門家がここにいるし。新居探し、楽しいしね」

わたしはうれしくなって、佑介さんの首に抱きついた。口を思い切り口で塞いだ。彼が何か言ったけどもぐもぐしてわからなかった。

「でも、ゆうくんはこの街に愛着とか、ない?」

「特にないなあ。いろいろと便利なところだけどね。でももっといい所もたくさんあるよ。れいちゃんはどの辺に住みたいとかってある?」

「ゆうくんがいればどこでもいい。でも、あえて言うならぁ……」

「あえて言うなら?」

「ねえ、ゆうくんの職場の近くってダメなの? 職住近接」

「それはいいアイデアだけど、あそこは高いんだよね。少し前、駅前に東海不動産が300戸くらいの新築マンションを売り出したんだけど、70平米台で何と8000万くらいしてた。それでもすぐ完売だったね。資産家が運用のために買う人もけっこういるみたいで、その賃料が何と28万」

「すごいわね。それはちょっと無理ね」

「うん。あれは条件がよすぎるからね。でも条件下げれば見つからないこともないよ。築浅の中古で賃貸って手もあるしね。駅から多少遠くてもいいなら、安いところも見つかると思う」

一緒に新居探しなんて、考えただけでうきうきしてくる。わたしが退職したら佑介さんの休日を利用して二人で探せばいいんだし、不動産見つけるのにこんな強い味方はいないんだし。

それから話が少し具体的なほうに進んだ。マンションか戸建てか。ペットを飼おうか。それだと戸建てのほうがいいかもしれない。もっとも猫ならマンション、犬なら戸建てかな。

「れいちゃんは犬と猫とどっちが好きなの」

「私は猫ね。実家で飼ってるのよ。ハナっていって、もうおばあさんだけどね。ゆうくんは?」

「僕はどっちかっていうと犬派だけど、猫のほうが気楽でいいかもね。あと、資金のこともしっかり考えとかないとね。これかられいちゃんが活け花やってくのにいろいろ必要でしょう」

「それはそんなに心配しなくって大丈夫だと思う。貯金も多少あるし、退職金ももらえるし」

「そうだね。僕も貯金はいくらかあるし、ここを売ればそこそこお金もできるし……。そうだ、年が明けたらちゃんと資金計画立ててみよう」

「うん!」


ふと、ダイニングのリトグラフが目に入った。

チェロの絵を見ているうち、こないだ佑介さんが勧めていたドヴォルザークのチェロ協奏曲のことを思い出した。

「ねえ。ドヴォルザークのチェロ協奏曲、聴かせてくれる?」

「ああ、そうだったね」

佑介さんは立って、すぐにラックから目的のCDを取り出してかけた。慣れた手つきだった。

牧歌的なホルンの響きが入ったやや長い前奏の後に、それを引き継いでチェロが不意に躍り出てくる。感傷的なところと力強いところが入り混じって、わたしをどこか異郷に連れていってくれるようだった。一度聴いたら忘れられない曲だ。

しばらく陶酔の境地に浸っていた。終わってから余韻を楽しんでいると、佑介さんが「どう?」と聞いてきた。

「いいわねえ。一曲全体がすごく一つの曲想でまとまってる感じ。楽章が違っても同じ曲の変奏みたいね。チェロって、なんていうか、すごく女泣かせだわ。ゆうくんみたい」

彼は私のおしまいの言葉に思わず笑いを漏らした。それから言った。

「最近、年のせいか、こういう感傷的な曲がしきりに聴きたくてね」

明るい声だったが、そこに微かな憂愁の影のようなものが感じられないでもなかった。

ふたりとも肩を寄せ合いながら、かなりの間じっとしていた。年のせい――それだけじゃないと思えて仕方がない。彼がさっき、いまの仕事に対する倦怠のようなものをふと漏らしたのがやはり気にかかった。


不意に彼がボソッと言った。

「お風呂一緒に入らない? 狭いけど」

急に言われたので、ちょっとどぎまぎしたけれど、うれしかった。からだの内部から熱くなってきた。雰囲気ががらりと変わった感じがした。

わたしが先に入って、からだをシャワーで流していたら、すぐ彼が入ってきた。男のものが聳えているので、笑いながらそれにシャワーをかけた。

それからお互いにシャワーのかけっこをして、ふざけ合った。その間だけは、何もかも忘れて、子どもに返ったみたいだった。。

ふざけ合ったあげく、わたしたちは、窮屈なお風呂場のなかで結ばれた。ベッドの上とはまた違った不思議な快感が全身を満たした。

背中の流しっこをしてから、湯船に一緒に入ると、お湯がどっとこぼれた。それを見て、わたしはなぜか、こもった空間でふたりだけの儀式を終えたような感覚に襲われた。

「ねえ」

さっきのふざけ合った華やぎがすーっと薄らいでいき、どことなく厳粛な気持ちになった。

「ん?」

「これからも一緒に入ろうね」

まじめな調子で言った。

彼もわたしの手を包み込んで、じっとまなざしをこちらに注ぎ、まじめに答えた。

「うん、きっとそうしよう」


「私のベッドより広いね。これダブル?」

「セミダブル。これでふたりじゃ、やっぱり狭いよ。引っ越したら、ダブルかクイーンズに買い替えよう。」

佑介さんがズームスイッチを最低まで絞った。

同時にベッドインして、そっとお休みのキスを交わした。
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