第92話 堤 佑介ⅩⅢの2

文字数 2,857文字



改札口の向こう、左手の片隅にあのライトブルーのコートがすぐ目に入った。にっこり笑って小刻みに手を振っている。

帰りの通勤客でごった返している中で、私は急いで近づくと、思わず彼女を抱きかかえた。それから、チュッ、チュッ、チュッと3回キスした。

彼女も自分のほうからためらいなく応える。気持ちが同じだと、どうしてこんなにタイミングが合うのだろう、と一瞬、不思議に思った。

レストランを予約、と玲子さんには言っておいたけれど、じつは上階のホテルの一室も予約してあった。そのことはたぶんわかっているだろうな、と思った。

少し不安がないわけではなかった。でも、もし抵抗感を示すようだったら、そのときはすぐ彼女の思いを受け入れることにしよう。

そのホテルまでの道を、ぎゅっと手を握りながら歩いた。私に肩をすり寄せながら、「きつくて痛―い」と彼女は甘えた声を出した。

食事をしながら、音楽の話になった。

マズルカを贈ってから、どんな曲を聴いたのか尋ねてみたら、私の好きな曲とほとんど一致していた。特に「春」を挙げたのには、季節外れではあるけれど、二人の恋の気分を表現してくれているようで、とてもうれしくなった。

「部屋が取ってあるんだ」と遠慮がちに言った時、彼女は少し顔をうつむけて、真面目にうなずいた。


ドアを閉めるなり、私たちは余計な持ち物をソファに放り出して、固く抱きついた。私は舌で彼女の唇を開いた。彼女はそれをそのまま受け入れた。

どれくらいそうしていただろう。永遠に続いてもいい、と思った。

「シャワー、浴びてくる」と彼女がかすれ声で言った。

待ち遠しかったが、念入りに整えているのだろうなと想像して、少しわくわくする気分にもなった。

私は入れ替わりに洗面室に入った。女性向きに、なかなか豪華な造りになっていた。彼女のなんともいえない残り香が私の気持ちを高揚させた。

下着のままシャワールームから出てくると、彼女はベッドの脇で、ガウンを羽織った背を向けて、何となくしょんぼりしたような様子だった。私はそっと近づいて、彼女を包み、ガウンを脱がせた。袖を外すときに身をよじらせるしぐさが色っぽかった。

薄紫のセクシーな下着だ。私の興奮は高まった。「すてきだ」と思わず感嘆の声を漏らした。ブラジャーをゆっくりはずして床に落としてから、両の乳房をつかんだ。大きすぎず小さすぎず、とても形のいい乳房だった。

正夢になった。

彼女はこちらに首をひねって、私を見つめた。私はその官能的な唇にもう一度自分の唇を合わせた。そのまま、うなじや肩にキスを浴びせ、右手でゆっくりと肌を撫でた。その手を下腹部に滑らせ、ショーツの中に入れていった。濡れていた。

「あ……」と小さな声が漏れた。同時に彼女の腰が折れ曲がるように傾いた。密着させた私のからだも折れ曲がった。そのままベッドに倒れ込んだ。


ほの暗い灯りの中で、私たちは裸の肌を寄せ合っていた。青春時代に返ったようだ、と思った。それからいろいろな感慨が頭の中を巡った。

「不安だったの……ありがとう」

彼女が言った。

私も不安だったのだ。彼女のそれほどではないにしても。

日常の忙しさの中にだんだんと入り込んできた、大切な非日常。どうやったら、うまく運んでいけるか。彼女の心を逃がさないようにできるだろうか。あまり頻繁にしつこくしてはいけないし、でも、不必要に我慢するのもいけない……そんなことに心を労してきた。

でも、とりあえずこぎつけた。これからも、違った形で心を労さなくてはならないだろう。

「ねえ」

「なあに」

「何て呼ばれたい?」

「そうね……佑介さんのお好みのままに」

「れいちゃん、でいい?」

「……うれしい」

「れいちゃん」

「はい」

私は彼女の耳たぶを軽く口に含んだ。

「あのね、れいちゃん」

「なあに」

「さっき、駅前でキスしたじゃない」

「うん」

「あのとき、ちょっと不思議に感じたことがあって」

「なに?」

れいちゃんはおもしろそうに、からだをこちらに向けてきた。

「どうして、気持ちが合ってると、チュッ、チュッ、チュッてタイミングがぴったり合うのかなって」

彼女はそれを聞いて、ウフフフフ、っと笑いだし、しばらく笑いが止まらないようだった。

「あれ、そんなにおかしい?」

「だって、いかにも佑介さんらしいんだもん。子どもみたい。ウフフフフ……」

「そうか。やっぱりおかしいか。そんなこと気にするのって。でもなぜなんだろう」

「きっと、キューピッドがそうさせてくれるのよ」

「心が通い合うって、からだも通い合うことなんだね」

うん! と言って、れいちゃんは唇を私に近づけた。短いやつの連発。今度もタイミングがぴったり合った。

逆も真なりかな、と思った。心が通い合わなくなったら、からだを接触させるタイミングも合わなくなる? ふたつははっきり分けられないのだろう。

それから彼女は、子どものころ何と呼ばれていたかと尋ね、じぶんも「ゆうくん」と呼んでもいいかと聞いた。そして「ゆうくん」の子どものころの話になった。私は中勘助の『銀の匙』の話をした。

子どものころ虚弱だった中勘助が80歳近くまで生きたこと。私も虚弱だったこと。れいちゃんは、私の腕に縋りついて、ゆうちゃんも長生きしてねとささやき、私のからだ中にキスの雨を降らせた。愛しさが増してきて、欲望が頭をもたげ、再び彼女を抱いた。れいちゃんは声を上げた。そのハスキーな声がずっと耳に残った。


そのまま眠るにはまだ早かった。最上階のカフェバーで夜景を楽しみながら一杯やった。その時、彼女が聞いた。

「そうそう、聞くの忘れてたんだけど、お誕生日、いつなの?」

「12月11日」

「あら、もうすぐね」

「れいちゃんは?」

「2月14日。バレンタインデーなの。チョコ贈るね」

「そしたら、僕がチョコもらう代わりに、れいちゃんにプレゼントを贈ろう」

「ありがと。ああ、でもあと2か月で48になっちゃうんだわ」

そう、それは女性にとって大きな問題に違いない。私は慰めの言葉を探した。

「お互い、そういうの、気にしないようにしようよ。気にするなって言っても気になるけどね」

「ほんとね。気にしないための呪文を考えときましょう。……それはそうと、11日って何曜日だっけ。えっと、あ、火曜日よ。翌日お休みでしょう。ねえ、よかったら、わたしの家でお誕生祝いしない?」

「うん。素晴らしいけど、れいちゃんはお勤めで忙しいでしょ」

「大丈夫。火、水と有給取るわ。全然こなしてないのよ」

「ほんとに? じゃ、お言葉に甘えて。仕事早めに終わらせて、すぐ駆けつけるから」

「手料理、張り切るわ」

「ありがとう。田原町だったよね」

「そう。時間がわかったら駅まで迎えに出ます」

女性は、こうと決めると、どんどんことを進めていく。ありがたいことだと思った。

しかしけやきが丘から田原町だと、ふつうに退社したら、けっこう遅くなってしまう。11日は本部に呼ばれたとスタッフにウソをついて、早めにオフィスを出ることにしよう。そう、何があっても。手下の不平を無視するステンカ・ラージン。
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