第83話 堤 佑介Ⅻの2
文字数 4,490文字
「おん」の階段を昇ると、玲子さんがにっこりと手招きしていた。
今日は地味目の服装だなと思った。しかしその笑顔で、会議で感じたストレスがいっぺんに吹き飛ぶ心地になった。
ビールがうまかった。思わずふう、とため息を発してしまった。
それから、金目鯛の煮つけや芋がらやアスパラガスを肴に日本酒を飲むことにした。玲子さんも飲むと言った。
かつて牛込神楽坂に落語を聞きに来た話から、いつか落語に一緒に行きましょうという話になった。
「落語のよさを外国人に理解してもらうのって、たいへんだと思うんですよ。最近は意欲的な噺家が苦労しながら世界を回っているようですけどね。あれ、どこまでわかってもらえるのかなあ。俳句なんかもそうですけど、日本の伝統文化って、ほんとに独特で、西洋人にはなかなか理解されないような気がします。」
こう話したとき、玲子さんがこの前送ってくれた活け花の写メを思い出した。
「そうそう、そう言えば、この前の野ブドウとダリアの写真、あれも素晴らしかったですね。あれはお家で活けたんですよね」
「ありがとうございます。そう、母にもらった水盤で初めてうちで活けてみたんです」
あやふやな理解を口にしてみた。
「活け花も日本独特で、ほんとにいいですよね。日本庭園と同じで、自然の素材を使いながら、まるで自然に生きているかのように手を加える。そうすると、自然以上に造化の美がそこに出現する。西洋のフラワーアレンジメントのような人工性が露出しないで、ひっそりと隠される……こんな理解でいいんですか」
「ええ。その通りだと思います。ただ、流派や作品によってはすごく人工的なのもありますし、近年は、フラワーアレンジメントのほうも、けっこう活け花に近いのも増えてきてますね。ただ、花数が多くてびっしりなのが違いますね」
「ああ、間の感覚がないんですね。だから、ブルーノ・タウトって建築家が桂離宮見てびっくりしちゃったんでしょうね。昔、一度だけヨーロッパに行ったことがあるんだけど、いろんな記念建造物の壁や破風が、人の顔や体のレリーフでびっしり埋められてるのね。こっちは逆にあれにびっくりした憶えがあります。ちょっと哲学風に言うと、彼らは『無』とか『空』を恐れていて、すべてを人間の手つきで埋めずにはいられないのかな、と思ったのね」
「ああ。なるほど。だから外へ外へって出て行ってあんなに強いとも言えるんじゃないかしら」
「そうか。それは考えなかった。それって、関係ありそうですね」
連想が、文化論から海洋進出や植民地収奪や帝国主義など、西欧の歴史と政治というややこしいほうに及びそうになったので、それは思いとどまった。
ビールを飲み終わった玲子さんのお猪口にお酒を注いだ。透明なマニキュアをしたきれいな可愛い両手がそれを支える。
「僕もお花、習ってみたいな。男がやってもおかしくないでしょう?」
「ええ、全然。大原流の家元は、まだ三十代の男性です。それと最近は男性でお花を習う人が増えてるみたい」
「暇がもう少しあったらなあ。玲子さん、教えてもらえない?」
半分冗談のつもりだったけれど、彼女はそれをまともに受けた。
「わたしなんかより母のほうがずっといいですよ。でも遠いですからねえ」
「いえ、玲子さんがいいです」
愛の告白の意味も込めて、すこしおどけ気味に、しゃっちょこばって言ってみた。
「まあ、フフフ……ありがとう。でもそれだと、わたしもきちんと修業しないと。活け花は奥が深いから」
お酒のせいもあるのだろうけれど、彼女の頬がほんのりバラ色に染まっている。こちらも楽しい空想が膨らんでくる。
「これはどう。玲子さんがご実家に帰った時に、お母さんの教えをみっちり乞う。それで自信つけて、僕に時々伝授してくれる。もちろん、授業料払います」
「授業料なんていらないわ。水臭いです。でも、そのお話って、まんざら空想でもなくって、わたしもちょっと本気で考えたことあるんですよ。会社辞めて真剣に修行積んで、師範の免許取って、母の跡継ごうかなって」
「え、そうなんですか。最近ですか」
「ええ、最近」
もしそれがほんとなら、彼女は、会社勤めに飽きてきているのかもしれないと思った。無理もないことだ。
「玲子さん」
「はい?」
「会社、きついですか」
「そんなにきつくはないですけど、ただ、今度、課長が変わって、若いバリバリの人になったのね。その人が、いきなりシステム変更するっていうんですよ。私みたいなオバサンには、それにちょっと抵抗感があるんです。もともと機械に弱いんで。同僚で同じこと言ってる女性も多いんですよ」
「ああ、なるほど。たしかにそれはわかるところがあるなあ。とにかくIT社会になってから、次々と新しくなりますからね。僕なんかも、もう四苦八苦してますよ。だんだん若い連中に任せていかないとね」
私も昔なら定年だ。しかし役職としての責任はあるし、先はまだ長いし、ここでへばるわけにはいかない。それにしても、玲子さんがそういう気持ちになるのはとてもよく理解できた。
「芸は身を助く」――お母さんがそういう仕事をしているという条件は、身を引くための強い牽引力になるだろう。
「お母さん、おいくつ?」
「75です。まだ元気ですけど、どっちにしても、いずれはわたしが同居しないと……」
そう言って、彼女は少し目を落とし、何か考えているふうだった。話がにわかに現実的になった。私は、武蔵野で活け花教室を開いているというお母さんのことを思い浮かべ、それからそこで若先生を務めている玲子さんの姿を想像した。
いい構図に思えた。
そしてお前は? お前はどうするんだ、という声がした。私は、私は、彼女にプロポーズする? もし彼女が武蔵野に引っ込んだら、私とは疎遠になってしまうだろうか……そんなことはないだろう。そんなに遠くないんだし、会おうと思えばいつでも会えるし。
もし彼女が会社を辞めたら、いまよりも、もっと会える時間が増えるんじゃないだろうか。そうしたら、別にすぐにプロポーズとまではいかなくても、ゆっくりつきあっていけばいい。きっと彼女も受け入れてくれるだろう。
そう思うと、彼女が欲しいという気持ちがじわじわとこみ上げてきた。
「まだ、飲む?」
「はい」
お酒のお代わりが運ばれてきた。
きれいな両手の間にお猪口があった。ゆっくりと、ゆっくりとそこに大信濃を注いだ。これが今の私の気持ちですというように。すると彼女は、それを形のよい唇にもっていって、やはり、ゆっくり、ゆっくりと飲み干した。
それからふいに彼女が言った。
「佑介さん……ってお呼びしていいですか」
「ええ、もちろん」
私はうれしかった。
「佑介さんのご両親って、どんな方だったの?」
「ああ、お袋は……そうね、小さくて繊細なたちでしたね。文学が好きで、小説をよく読んでました。でもけっこう教育ママで、兄と私は、よく食卓で勉強させられましたよ。厳しいところもありましたね。人付き合いは、あんまりうまいほうじゃなかったです。僕は可愛がられましたけどね」
話しながら私は、お袋が、男と女がお互いの家族のことを話し出すとその二人は好き合っている証拠だと、何の根拠もないことをしきりに言っていたのを思い出した。
「お見合い結婚?」
「うん、そう。あれは、あんまり相性のいい夫婦じゃなかったな。親爺のほうは、ものにこだわらない、社交的な人でしたから。ただ、大酒飲みでね、よく外で飲んで、会社の仲間を家に連れ込んできましたよ。」
玲子さんは、くすっと笑って言った。
「それって、佑介さんのこないだの話と似てますね」
「え? あっ、そうか。そんな話、したね。でも親爺のほうがずっとひどかったですから、どうぞご安心。親爺は人連れてきて、自分は寝ちゃうんですよ。お袋は酒飲めないのに、招かれざる客の相手をしなくちゃならなかった。そのうち、親爺がひょっと目覚めて、『なんだ、××、まだいたのか、もう帰れ』なんていうんですよ。お袋はまじめだったから、そういうの、すごく嫌がってましたね」
「アハハ、おもしろいわ。お父さんっておもしろい方だったのね」
「いやあ、いまでこそ笑えますけど、はたで見てる子どもの目からすると、すごくいやでしたよ」
「ああ、それはそうでしょうね。ごめんなさい」
「いえ、いいです。それと、ちょっと酒が入った時はご機嫌がよくて面白いんだけど、日曜日なんか、ぶすっとして、こうやって一日中ひげを抜いてるんですよ」
「アハハ、笑っちゃいけないけど、それもおもしろい」
今度は、玲子さんのお父さんについて聞いてみた。
「うちの父は、お酒飲みだったけど、そういうところはなかったですね。酔っぱらってもあんまり崩れるとこともなくて。ごく普通のサラリーマンとして一生を終えました。定年退職してからも、死ぬちょっと前まで別の会社に勤めてたんですよ。ええ、わたしや妹にも優しかったです。でも最後はやっぱりお酒で肝臓やられちゃいましたけどね」
「じゃあ、幸せなご夫婦だった?」
「ええ、そんなに喧嘩もしませんでしたしね。まあ、幸せだったって言えるのかな」
10時をだいぶ過ぎた。そろそろ、ということで、立ち上がった。
玲子さんの明るいブルーのコートが、影になった場所のハンガーにかかっているのに、今まで気づかなかった。着せてあげようと思ったら、彼女はもう自分でとり、袖を通していた。淡いグレーのセーターにとてもよく似合った。彼女自身が活け花みたいだった。
抱きしめたい、と強く思った。他の客はもういなかったが、店員が控えている。まさかここでは、と我慢した。
牛込神楽坂駅までの、人通りのない暗い道を、黙って歩いた。少し進んでから、彼女の肩にそっと手をまわし、抱き寄せてささやいた。
「玲子さん……好きです」
彼女もそれに応えるように、私の胸に頬をすり寄せた。それから首をこちらにもたげて目を閉じた。
唇を合わせると同時に、彼女の両腕が私の首に絡みついてきた。とても官能的な唇だ、と感じた。青いきれいな花を摘み取る――そんな気持ちで腰に回した手に力を込めた。厚い衣服を通しているのに、不思議にからだの温かみが伝わってくる。
長いことそうしていた、と思う。
身を離したとき、彼女は私に支えられながら、目を閉じてはーっと長い息を吐いた。この口づけが彼女の心をこれまでとは違う世界へ連れていった――そう私は確信した。
彼女は明日も休日だ。このままホテルへ、という考えが浮かんだ。けれど、彼女が聞き取れないほどの声で言った。
「あしたの佑介さんのお仕事が……」
私は言葉を封じられたように、彼女の目をじっと見つめた。しばらく見つめていた。うん、そうだね、わかった。もう少し待とうね。きっとそれはいいことだ……。
改札をくぐって手を固く握りあいながら、ホームへの階段に向かう時、彼女が私の耳元に口を寄せてささやいた。
「佑介さん……わたしも好きです」
ホームへの階段を降りる時、あたりに誰もいないのを幸い、もう一度抱き寄せて口づけをした。彼女の柔らかい胸の感触が伝わってきた。いつかの夢が正夢になりそうだ、と思った。