第7話 半澤玲子Ⅱの2

文字数 1,890文字


そういえば、今朝、行きの電車で痴漢に遭った。

ぎっしり混みあった車両のなかで、互いにねじったような感じで周りの人たちと体を接触させていたんだけど、一人の男の手がわたしのお尻に触れて不自然な動きをしているのに気づいた。男の顔は向こうを向いていたが、電車が揺れた拍子に横顔が見えた。普通の中年サラリーマン風。にらみつけようと思ったが、その前に男は手を引いた。

じつに嫌な気分になったけれど、気の強い女性のように男の手をつかんでどこまでも追及するみたいな気にはなれなかった。それよりも離れた方がいい。とっさにそう思って、反対方向に無理をして身を寄せた。

もちろんこれまでも、こういうことは何度もあった。でもわたしは、捕まえて公安につき出すような振舞いはしたことがない。もともと気が弱いせいもあるけれど、もし冤罪だとしらを切られたり、逆恨みされたりしたら、結局面倒なことになるだけだからだ。

ただ、しばらくこういうことがなかったので(最後に経験したのはいつだったかしら)、この嫌な感じを忘れていた。それで、今日久々にあんなことをされたので、ちょっとショックが大きかった。

それは、複雑な気持ち。うまく言えないし、人にはあまり話したくない。だからさくらちゃんにも黙っていた。エリにだったら話すかもしれないけれど。

久々に痴漢に遭う。殺してやりたいほど憎いけれど、私がまだ女であることをこいつが証明してくれたのも事実だ。50になっても60になっても遭うんだろうか。もし全然痴漢に遭わなくなったら、ちょっと寂しいって感じたりするのかしら。

今度実家に帰ったとき、母親に聞いてみよう。「お母さん、いくつまで痴漢に遭った?」って。ふふ……。



痴漢はヘンタイ扱いされるけど、でも男って女のこと、たいてい性的な目で見てる。同僚の連中だって、そうだってことが視線でわかるわ。服装ちょっと大胆だと、すぐちらちら見るものね。だけど理性で抑えてるだけなんでしょうね。

すると、男はじつはみんな多かれ少なかれヘンタイだということになる。うん。

でも、男がみんなヘンタイだとすると、そもそもヘンタイの定義は何だろう、と、パソコンにデータを打ち込みながら、妙に理屈っぽくなっていた。

ヘンタイとは、すなわち、普通の男女がすることじゃない仕方で性的な振る舞いをすること。

あれ? これじゃ男がみんなヘンタイだっていうのと矛盾するな。えーっと、ローズからの入金が242万7千……。

「半澤さん、これ追加の伝票で~す」

「あ、はいはい」

変なこと考えて間違えないようにしなきゃ。ちゃんと、ちゃんとしなくっちゃ。

でもちっちゃなことではあるけれど、出勤時にあんなことがあると、どうしても長い時間気になっちゃうのがわたしの性分だ。

ヘンタイと言えば、最近、いろんなところでLGBTって言葉を耳にするようになった。

最初は何のことかと思ったけど、Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシャル、Tはトランスジェンダーのことだそうだ。

物知りで早耳の中田課長が得意そうに教えてくれたっけ。それで、トランスジェンダーだけが精神疾患扱いの対象になってるのだという。

トランスジェンダー、つまり性同一性障害ってやつね。体は男で心は女、またはその反対。ちょっと感覚としてわからないわ。

マルハチからは、と。あれ? この前よりずいぶん金額下がってるわ。閉店したところでもあるのかな? あそこは下町に店舗展開しているところが多いから、やっぱり景気悪いのかしら。報告入ってたっけ。これ調べなくちゃいけない。

でもLGBTの人たちのこと、昔はヘンタイって呼んでたけど、最近はなんだか、サベツ、サベツってうるさくて、表向き使えなくなっちゃったわね。

たしかにこういうひとたちのことをヘンタイって呼ぶのはバカにしてる雰囲気があるからよくないけど、フツーの人と違ってることはたしかなんだから、あんまり平等だ、平等だとか、人権、人権だとか騒いでフツーの人と一緒にしない方がいいんじゃないかしら。

むしろ痴漢のほうがフツーの男の性欲とつながってるんだから、フツーの男がみんなヘンタイ傾向を持ってるんだとすれば、痴漢やった奴なんかに対しては、「このヘンタイ!」って怒鳴りつけてやっていいと思う。

なんだか、こんがらがってきた。思考停止。早く仕事片付けちゃわなくちゃ。今度エリにでも会ったとき、聞いてみよう。

えーっと、マルハチさんはっと。マルハチ、マルハチ……。

みつかった。やっぱり店舗の数を減らした報告書が来ていた。

あの大きなホームセンターが縮小するとは、ちょっと驚きだ。やっぱり不景気は回復してないんだわ。
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